古戦場めぐり「長享延徳の乱・鈎の陣(滋賀県栗東市)」
◎『長享延徳の乱・鈎(まがり)の陣』
「長享・延徳の乱」とは、室町時代後期の長享元年(1487)と延徳3年(1491)の2度に亘って室町幕府が行った、近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称されます。なお、1度目の出陣は近江国栗田郡鈎(まがり)(現栗東市)に在陣したため、別に「鈎の陣」とも称されます。
近江国南半の守護・六角高頼は、応仁の乱で西軍に属した経緯から、しばしば幕府から圧迫を受けており、このために幕府に反抗する姿勢を強め、幕府の禁制を無視して、近江国内の将軍家御料所(直轄領)や幕臣の所領、寺社領荘園などを押領するようになりました。被害を受けた諸将や寺社・山門は、これを九代将軍・足利義尚に訴えて高頼の処罰を請いました。将軍義尚は長享元年(1487)7月23日、これを容れて高頼の討伐を決め、8月に入ると在国の諸将を招集しました。これは、応仁の乱で失墜した将軍の権威を取り戻すため、その武威を天下に誇示しようとする思惑もあったようです。
義尚は9月11日、父・義政を訪ねて出征の報告を行い、翌日に出陣しました。従うのは浦上則宗・一色義秀・斯波義寛・細川元有ら、391騎8000とも1万ともいわれる軍勢です。大将の義尚は坂本を本陣に定め、20日には先軍として細川政元・武田国信・富樫政親らを勢多に進撃させ、24日に六角方の要衝である金剛寺や八幡山を陥落させました。幕府軍はさらに進んで、六角氏本城の観音寺城を攻めようとしたため、劣勢を強いられた高頼は観音寺城を捨て、甲賀郡に遁走しました。緒戦に勝利し10月4日、栗太郡鈎(まがり、現在の滋賀県栗東市)の安養寺に入った義尚は、六角氏によって押領されていた所領を没収して、廷臣や門跡らに還付しました。鈎は甲賀郡の入り口近くで、諸大名の軍勢も現在の栗東・草津・守山その他の地域に分散して布陣します。鈎に陣を敷いたため、この戦役を「鈎(まがり)の陣」と呼びます。さらに翌5日、幕府軍は高頼追討のため甲賀郡に侵攻して高頼をさらに逐い、ひとまずは所定の目的を達しました。義尚が、父の義政に次の歌をおくります。「坂本の浜路を出て浪安く 養ふ寺にありと答へよ」。義政の返歌は「やかてはや国収りて民安く 養ふ寺を立ちぞ帰らん」。
義尚は27日、本陣を鈎の真宝館に移し、腰を据えて高頼支配下の国人らの掃討を行おうとしましたが、甲賀山中に逃げ込んだ六角勢力を根絶することは容易ではありませんでした。12月2日、幕府軍が一旦撤収しようとしたところを六角勢の軍勢が襲撃に転じたほか、諸将の陣所には夜討ち・放火が仕掛けられるなど撹乱戦に悩まされています。いわゆる、甲賀忍者が有名になるのはこの時からです。鈎の陣に参加した甲賀武士は53家、特に活躍したのが21家あったといいますが定かではありません。この前後に、幕府方大名の陣地で火事が続発し、それらも甲賀忍者の仕業であるといいます。具体的には閏11月に伊勢貞誠の陣で、12月に織田広近の陣で、翌年5月は浦上則宗の陣で出火しています。
翌長享2年(1488)3月、六角方の伊庭某が伊賀国より近江国に進出しようとする動きもあり、戦局は膠着しました。その一方で義尚は、飛鳥井雅康・三条西実隆・宗祇らの文化人を招いて、歌会・猿楽・蹴鞠などを催しており、戦陣に在るという緊迫感は薄かったようです。幕府方の内部においても、長期に亘る滞陣を憂慮した細川政元が、長享元年11月に義尚に陣を坂本に移すことを勧めていましたが、義尚がこれを容れなかったため不和となり、長享2年6月20日に大津の陣所から撤収してしまいました。8月になって、義尚が大内政弘を召し出そうとした際には、政元はこれを抑止しており、10月3日には復帰して再び大津に着陣していることから、一応不和は解けたと目されますが、自領内に蜂起した一向一揆を鎮定するため帰国した富樫政親のような離脱者などもありました。
このような状態で義尚(少し前に義煕に改名)の滞陣は続けましたが、疲労や生来の深酒などのせいもあって健康を損ね、長享2年3月には病に罹ります。しばらく前に、側近の二階堂政行を通じて陰陽博士から、「六十人の刀鍛冶に六十本の刀を打たせれば敵を誅滅出来る」との話を聞き、陣中にて打たせていた六十本の刀が完成した翌日であったといいます。母の日野富子が看病に駆けつけ、一旦回復したので富子は京に戻りましたが、長享3年/延徳元年(1489)3月16日に重態に陥り、26日にわずか25歳の若さで、六角高頼征討を果たせぬまま鈎に陣没しました。最後は水と酒しか受け付けなかったといいます。また、甲賀忍者に刺殺されたとの俗説もあります。
義尚の死没によって、幕府軍は鈎から撤退し、細川政元の斡旋を受けた六角高頼は、押領した土地を返還するということで許されましたが、高頼は依然として押領を続けたため、十代将軍となった足利義材によって、延徳3年(1491)8月より再び幕府軍の討伐を受けることとなります。今回も将軍みずからの出陣ですが、十代将軍義材本人はあまり近江の奥には入らず、京にほど近い園城寺(三井寺)に本陣を置き、今回は六角の将を謀殺し、戦闘で300人ほど討取る等の戦果を挙げました。またしても、甲賀郡に逃れた六角高頼を捕えることは出来なかったものの、それなりの成果をあげたと判断した義材は、京に凱旋しますが、明応2年(1493)には細川政元のクーデターにあって失脚しました。
○「鈎陣所跡」(栗東市下鈎町)
六角氏を追って鈎の山徒真宝坊の居館だった真宝館に陣を敷いた足利義尚は、この陣所で25歳の若さで没しました。現在の永正寺の地にあったといわれます。鈎陣所跡の永正寺の周囲には、土塁と堀跡が残っており、広さからみて主郭であると思われます。鈎陣所は、複数の曲輪をもった、およそ120間四方の、ほとんど城郭といってよい規模を有していたとされています。ただ、これら土塁の痕跡と小さな説明版。室町幕府第九代将軍足利義尚が構えた陣所。京都の外で将軍が没した重要な史跡です。ただし、「鈎の陣」の石碑は上鈎池西側の公園にあります。
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