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2016年09月25日06:21

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古戦場めぐり「観音寺城の戦い(滋賀県東近江市)」

古戦場めぐり「観音寺城の戦い(滋賀県東近江市)」

◎『観音寺城の戦い』
「観音寺城の戦い」は、永禄11年(1568)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦いです。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」ともいわれています。信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に大きな影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となりました。この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえます。激戦となりましたが、箕作城は結局1日で落城しました。観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びました。
永禄11年(1568)9月は、あの足利義昭を奉じての織田信長の上洛です。もはや美濃(岐阜県)を制した織田信長にとって、上洛の際に最も大きな障害となるのが、南近江(滋賀県南部)を制していた六角承禎(じょうてい・義堅)でした。そこで信長は、承禎に本領安堵などの好条件を提示して、味方になってくれるよう打診しますが、すでに三好三人衆らと結んでいた承禎は、これを拒否します。当然のことながら、信長ですから、そこは六角氏を倒しての強行突破ということになります。ところで、この六角氏というのは、京都に設けられた館が六角東洞院だったことから、六角氏と呼ばれるようになりますが、もともとの本姓を佐々木と言い、宇多天皇の流れを汲む名門で、近江源氏として知られた家柄でした。
承禎の時代の天文21年(1552)には、対立していた浅井久政に勝利し、一時は、浅井家を配下にしたこともありました。治世においても、後に信長が行う城割を、文献上初めて行ったのは、この承禎でした。しかも、やはり、この後の信長の楽市楽座の見本ともいうべき楽市も行うなど、戦国大名の先駆者的存在の武将です。ただ、承禎が息子・義治(よしはる)に家督を譲った弘治3年(1557)頃から、少々のほころびを見せはじめます。もちろん、家督を譲っても承禎が実権を握っていましたが、その当主交代劇の翌年には、反攻的態度を見せ始めた久政の長男・浅井長政に大敗し、さらに永禄6年(1563)には、義治が有力な重臣を殺害する観音寺騒動が勃発します。なぜ殺害に至ったのかは不明ですが、その重臣が城内の家臣たちからの人望も篤く、忠臣として有名な人であったことから、家臣たちの間に主君への不信感が生まれ始め、それを修正すべく『義治式目(六角式目)』なる分国法を制定するのですが、それが、いわゆる重臣たちとの合議制で決められた法であったようで、もはや、主君としての威厳も危うくなっていました。そして永禄11年(1568)、信長の上洛です。それこそ、兄の将軍・足利義輝を松永久秀と三好三人衆に殺され、自分の身も危うくなった足利義昭が、最初に頼ろうとしたのは、他ならぬ六角承禎であったというくらい頼りになる人物でした。信長がこの先やろうと思っている治世を、すでにやっている先駆者でもありましたし、なんたって幕府公認の守護でもありますから、信長らしからぬ丁寧さで、味方へのお誘いをかけたようですが、承禎はこれを断固拒否します。聞くところによれば、使者に会うことすら無かったとか。
かくして永禄11年(1568)9月7日、準備を整えた信長は1万5000の兵を率いて、岐阜を出立します。ここに、三河の徳川家康軍、北近江の浅井長政軍などが加わり、総勢6万の大軍となった織田勢は、途中で3隊に分かれ、稲葉一鉄らが率いる第1軍が和田山城、柴田勝家・森可成(よしなり)らが率いる第2軍が観音寺城、信長以下・丹羽長秀・滝川一益・木下(後の豊臣)秀吉らの第3軍が箕作城(みつくりじょう)へと向かいました。9月12日早朝に現地の到着した信長軍は、休むことなく、まずは、箕作城への攻撃を開始しますが、箕作城は険しい山が天然の要害となった堅固な城で、7時間かけてもその守りを破ることができず、夕方の5時頃には一旦、戦闘が終了します。決着は、明日に持ち越されたかに見えましたが、そこに夜襲をかけたのが秀吉率いる精鋭部隊で、デカイ松明を数百本用意して、麓に火をつけながら一気に攻めのぼります。そのまま7時間戦って、もはやこの日の戦闘が無いだろうと思っていた六角軍は、ふいをつかれたことで動揺し、守りも乱れた城内は、その攻撃に持ちこたえることができず、翌13日の夜明けを見る前に箕作城は落城します。この一報を聞いた和田山城では、守っていた城兵が戦わずして逃亡します。この両城の様子を、居城・観音寺城で聞いた六角承禎・義治父子は、やむなく観音寺城を無血開城・・・夜陰にまぎれて甲賀へと逃亡し、永禄11年(1568)9月13日、世に観音寺城の戦いと呼ばれる合戦は信長の勝利となりました。当時、17ほどあったといわれる六角氏の支城も、もはや当主が逃亡した状態では何もできず、残りの支城も次々に織田方へと降ることになり、上洛への最大の障害を排除した信長は、9月26日に京へと入ります。

○「箕作城」(東近江市五個荘山本町)
「箕作城」(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館です。

○「観音寺城」(近江八幡市安土町)
「観音寺城」は、滋賀県近江八幡市安土町にあった日本の山城です。


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