古戦場めぐり「比叡山焼き討ち(滋賀県大津市)」
◎『比叡山焼き討ち』
「比叡山焼き討ち」は、元亀2年(1571)9月12日、現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦いです。この戦いで織田信長は、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたといわれています。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されています。
『天下布武』を掲げ、徐々にその版図を広げる織田信長でしたが、その障害となったのは他の武家勢力だけではなく、寺社勢力も含まれていました。当時の寺社勢力は、農民層をはじめとして多数の信者を抱えるだけでなく、有力大名と結びさらには僧兵集団を形成し、各地で勃発する一揆の後ろ楯となって武器の供給や軍事指揮者の派遣を行うなど、自衛力を超えた軍事力が組織的に展開されていたのです。比叡山延暦寺もそのひとつです。比叡山は仏教信仰の「聖地」とされていたが堂塔も坊舎も荒れ果て、修行もせずに肉を喰らい、女を抱くなどその山門僧侶の腐敗堕落ぶりは明らかであった。それでも比叡山そのものは、多くの人々にとっては、神聖不可侵の地として崇められていたのです。それと同時に山全体が要害でもあり、800年来の俗権不可侵の特権を持つ数百の坊舎は、宗徒が籠もれば数万の軍勢の寄宿に耐える力を持っていたといわれます。
元亀元年(1570)6月の近江国姉川の合戦において、徳川家康の協力を得て朝倉義景・浅井長政連合軍を破った織田信長ですが、その出陣中に摂津国で三好三人衆が挙兵したとの急報を受けて、軍勢を率いて畿内へと向かいました。そして、三好勢の拠点である摂津国野田・福島の両砦を包囲します(野田・福島の合戦)。そして、石山本願寺が織田勢に宣戦を布告、戦線は膠着しました(石山合戦)。9月になるとその隙をついて、朝倉・浅井連合軍が京に向けて進攻を開始します。信長はやむなく、これを迎撃するために摂津国の陣を引き払って近江国坂本に布陣しました。対する連合軍は、比叡山山頂に布陣し隙を見て山を下っては、京都近郊の集落に放火を繰り返しました。そこで信長は、山門宗徒に対して、味方になればこれまで召し上げた山門領を返還するし、味方しないのであれば宗教者として中立的立場を取るように、と交渉の姿勢を見せましたが、宗徒側はこれに応じようとせず、つまりは朝倉・浅井方に味方するということで、交渉は決裂となりました。
9月25日より信長は、比叡山の麓を包囲して朝倉・浅井連合軍を「干し殺し」にする目算でしたが、山門宗徒の援助を受けて連合軍は依然として健在でした。
11月末の志賀の陣(堅田の合戦)での敗戦、伊勢国長島の一向一揆蜂起による小木江城の落城など、信長を取り巻く状況は悪化していく一方でした。窮した信長は12月13日になって、将軍と天皇に働きかけて勅命を得て、朝倉・浅井氏と講和を結びます。連合軍側にとってもこれ以上滞陣が長引くと、兵糧の欠乏や積雪が帰国の妨げとなる憂慮があったため、双方に利があっての和睦と見られます。これによって朝倉・浅井連合、織田勢ともに兵を引きました。
その後帰国した信長は、年が明けて元亀2年(1571)正月、岐阜城に年賀に訪れた細川藤孝に対し、「今年こそ必ず山門を滅ぼすつもりである」とその決意を語ったといいます。比叡山征伐の準備は、すぐに始められました。まず正月2日に、近江国横山城を守る羽柴秀吉に命じて、姉川から朝妻に至る交通を海陸ともに遮断させました。北陸と畿内を結ぶ交通を分断することで、比叡山と朝倉・浅井勢力が再度結びつくことを防ぐという意図です。ついで2月には、近江国佐和山城に重臣の丹羽長秀を置き止め、信長の本拠である岐阜から湖岸への道を確保しました。5月、信長は伊勢国の一向一揆を相手に苦戦を強いられます(伊勢長島一向一揆・その2)。同じ頃に、近江国北部の一向一揆と結んで姉川まで出陣してきた浅井勢を、羽柴秀吉が敗走させました(箕浦の合戦)。この時期になって、戦況がやや明るくなりました。8月18日、信長は岐阜を出陣して近江国北部に向かいました。まずは横山城にしばらく滞在し、26日には横山城を出て中島に着陣し、その翌日には、越前国との境に近い余呉・木ノ本近辺を放火して横山城に戻りました。28日、今度は一転して南方へと軍勢を進め、佐和山城に入りました。9月1日、信長は南近江に配していた佐久間信盛・柴田勝家・中川重政・丹羽長秀らに命じて、浅井氏に通じていた新村(志村?)城・小川城を陥落させたのち、江南の一向一揆の拠点である金ヶ森城を開城させ、瀬田に入りました。
そして三井寺で短く休息したのち、9月12日早暁、突然に海陸から坂本へと迫りました。この信長の動きに、山門側は完全に虚を衝かれました。織田勢は坂本の街を荒らしまわり、日吉山王二十一社や、比叡山の象徴として諸人を畏怖させた神輿にも火がかけられました。炎や兵に追われた人々は、ひたすら山頂を目指して逃げていきました。織田勢は素早く、比叡山の全ての出口を封鎖しました。3万の軍勢で山麓を囲み、退路を完全に遮断したのです。佐久間信盛や武井夕庵ら、臣下の諫止は一切受け付けず、黄金を贈って信長の怒りをなだめようとした山門の申し出も一蹴、信長は宗徒を根絶やしにする姿勢は、決して崩さなかったのです。合図とともに鬨の声をあげながら、織田勢は攻めかかりました。見つけられた者は、僧俗、老若男女構わず無差別に殺されました。山頂においても、徹底的な破壊と殺戮が行われ、根本中堂をはじめ、4、5百という堂塔坊舎の全てに火がかけられました。殺された者は3、4千人にものぼり、比叡山は累々たる死体で埋め尽くされたといいます。この放火と殺戮と奪略は、15日までの4日間続けられました。奇跡的に焼失を免れた西塔北谷の小さな瑠璃堂のひとつを例外として、全ての堂宇が焼き払われたのです。創建以来の貴重な仏像や経典・什宝の類も、ことごとく略奪されるか、灰燼に帰したのです。辛うじて琵琶湖へと逃れることができた者も、小船で待機していた軍兵によって皆殺しにされたといいます。
信長は、まだ放火が続いている13日の午前に、小姓や馬廻だけを率いて入京しています。将軍御所を訪れたのち、妙覚寺に入りました。前代未聞の行為を実行中であるにも関わらず、なんら悪びれた態度もなく、いつもと変わらず公家たちと接していたといいます。
○「比叡山延暦寺」(大津市坂本元町)
1200年前、最澄は比叡山に登り、草案を結び「一乗止観院」と名付け、自作の薬師如来を安置しました。延暦7年(788)には、法華十講を開き、日本仏教の母なる山としてその歴史は始まりました。
その延暦寺の歴史の中での一大事件はやはり信長の比叡山焼き討ちです。信長は以前から、比叡山を味方にしたかったのですが、朝倉氏と親交が深かったことと、天下統一の野望を阻止しようとする浅井・朝倉両氏が比叡山に避難していたことから、元亀2年(1571)9月12日、山麓の坂本から信長の3万の兵が、山王二十一社、西教寺、八王子山、そして比叡山の4500もの堂塔伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、子供は見つけ次第首を刎(は)ね、ことごとく殺戮を続け、その犠牲者3000から4000人にものぼったと伝わります。
荒廃した比叡山の復興が始まったのは天正10年(1582)で、焼き討ちを免れた、施薬院全宗(やくいんぜんそう)と観音寺詮舜(かんのんじせんしゅん)ら31人の僧たちでした。彼らは『比叡山再興勧進帳』を作り、各地から寄付を募り、羽柴秀吉に再興の許可を依頼した結果、天正12年には京の都の鬼門守護と国家鎮護のための寺院として再興の許可が下り、銭一万貫が寄付されました。徳川家康や伊達政宗も復興の協力に加わり、根本中堂から再建が始まり、文禄4年(1595)豊臣秀吉は、弟の秀次が三井寺と通じているという理由で突然、三井寺の廃絶を命じ、三井寺の堂宇を復興名目で移築したといわれています。現在の西塔の釈迦堂は、その時の三井寺の総本堂である金堂でした。
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