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2016年09月23日06:59

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古戦場めぐり「壬申の乱・瀬田唐橋の戦い(滋賀県大津市)」

古戦場めぐり「壬申の乱・瀬田唐橋の戦い(滋賀県大津市)」

◎『壬申の乱・瀬田唐橋の戦い』
「壬申の乱」(じんしんのらん)は、天武天皇元年(672)6月24日から7月23日に起こった、古代日本最大の内乱です。天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、皇位継承をめぐり勃発した争いのことです。古代日本でおきた最大の戦いとされます。名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん)にあたることによります。
白村江の戦いの後、中大兄皇子は668年。天智天皇として即位します。その僅か3年後に病死してしまいますが、その後継者任命がことの始まりです。天智天皇は、後継者の有力候補だった弟の大海人皇子を差し置き、自分の子、大友皇子を後継者として指名しました。この大海人皇子(弟)とは、大化の改新では兄を助け、人望が厚く、彼に心を寄せる豪族達も多くいたといいます。大海人皇子は、兄が自分の事を快く思っていないことを知り、吉野という場所へ隠棲していましたが、これは時を待ち、チャンスを伺っていたともいわれています。そして、天智天皇の死後、この後継者の大友皇子と大海人皇子の対決は避けられないものになっていくのです。天智天皇の死後、戸籍の作成や白村江での大敗など、かつての彼の政治に対する不満が爆発します。このチャンスを大海人皇子(弟)は、逃しませんでした。
大海人皇子は、隠棲していた吉野を出て、自身の領地のある美濃へ出発します。初めは、賛同する兵も多くはありませんでしたが、伊賀、伊勢を通り美濃にたどりつくまでには、かつての政治に不満をもっていた豪族らを、次々に味方につけ、あっという間に圧倒的な兵力を手に入れてしまいます。そして、大海人皇子はその兵を、琵琶湖を挟むように二手に分け進攻させていきます。大友皇子(天智天皇の子)側も、進撃体制を整え防戦しますが1ヶ月の後、琵琶湖の南に位置する「瀬田唐橋の戦い」で大敗を喫すると、その翌日、山前(琵琶湖の南西辺り)で大友皇子は首をくくって自害することになるのです。25歳という若さでした。この叔父と甥が皇位継承をめぐって激しく激突した争いを、「壬申の乱」といいます。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱でした。近江大津宮は5年余りで滅亡し、都は再び飛鳥(奈良)に移されました。その後、勝利した大海人皇子は天武天皇となり、天皇を中心とした国家づくりに力を注いでいきます。

○「瀬田唐橋」(大津市瀬田)
最大の決戦地となった瀬田橋。東側に村国男依の軍が布陣し、大友皇子率いる朝廷軍は橋の西で構えました。その軍の後が見えないほどの兵の数だったという記述が、日本書紀に見えます。弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち、それらが雨のように落ちてきました。橋の中程の板をはずして敵を落とすという、朝廷郡の仕掛けたわなは、一人の勇者・大分君稚臣(おおきだのきみわかみ−大津皇子の従者)によって破られました。彼はわなを見破り、弓矢の中に突撃しました。

○「弘文天皇陵」(大津市御陵町3)
「弘文天皇陵」は、大津市役所の裏手にある森です。弘文天皇は、天智天皇の皇子である大友皇子のことです。また、日本で始めて「五言の詩」を作ったことから、学問の神として崇敬されてきた人物です。天智天皇が大津京で没すると、皇位継承をめぐって実の叔父である大海人皇子と、天武元年(672)古代最大の内乱である「壬申の乱」で争い、悲惨な最期を遂げました。享年わずか25歳でした。勝利した大海人皇子は、飛鳥に遷都して天武天皇となりました。大友皇子は長らく皇統に認められなかったらしく、日本書紀にもその名がありません。しかし明治3年になって、ようやく天皇として認められ、39代弘文天皇と追号されました。死地とされた長等山麓の塚が、弘文天皇陵となりました。そして追号されてすぐに、長等山麓の一古墳が陵墓に選定され、死地である「山前(やまさき)」の名をとって「長等山前陵」(弘文天皇陵)と命名され、現在にいたっています。
記録によれば、天武天皇元年(672)7月23日、大友皇子は山前の地にて首を吊り、25歳の生涯を終えました。大友皇子(弘文天皇)が最期を迎えた場所は分かっておらず、大津市内だけでも4ヶ所の伝承があるといいます。この山前という場所は、その読みが「やまさき」であるところから、現在の山崎(天王山)ではないかという説と、近江京近くのどこかの山かもという説に分かれていますが、いずれにしても、左右大臣をはじめ、大友皇子の近臣は、皆、ちりぢりに逃げ去り、彼に従うのは物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と、1〜2人の舎人(下級官人)だけだったといいます。大友皇子は、先の天智天皇が、未だ中大兄皇子と称されていた23歳の時に、伊賀采女宅子娘(うねめのやかこのいつらめ)との間に生まれた長男です。采女とは、地方の豪族が中央への恭順の証しとして、その娘を後宮へと差し出された下級女官のことで、伊賀とついているからには、彼女は伊賀(三重県)の豪族の娘であったといえます。

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