古戦場めぐり「関ケ原前哨戦・伏見城の戦い(京都府京都市)」
◎『関ケ原前哨戦・伏見城の戦い』
「伏見城の戦い」は、慶長5年(1600)7月18日から1600年8月1日まで行なわれた関ケ原の戦いの前哨戦です。会津征伐へと向かった家康は、伏見城に老臣鳥居元忠を守将として残します。もし三成方(西軍)が蜂起すれば、万に一つも勝ち目はないのを承知で元忠はこれを受け、暗に家康との別れを告げます。
元忠は、鳥居伊賀守忠吉の三男で、幼名は鶴之助のち彦右衛門と称しました。天文20年(1551)、元忠13歳の時に10歳の家康(当時は松平竹千代)の近侍として仕えて、以来数々の合戦で戦功を挙げますが、三方ヶ原の戦いの際に負傷し片足が不自由になります。同年、父忠吉の死去により家督を相続、典型的な三河武士として徳川家中に重きをなしました。天正10年(1582)の本能寺の変の際には、甲斐古府中(甲府)で北条氏勝勢を破った功により、家康から甲州郡内の地を与えられ、天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐では家康に従って出陣し、武蔵岩槻城を落とすなど活躍、秀吉からも感状を受けました。家康の関東入国の際には、下総矢作4万石の主となっています。
ここでエピソード一つ。武田氏滅亡後、武田四臣と呼ばれた重臣馬場信房の娘がさる所に隠れ住んでいるとの情報があり、家康はこれを捕らえるため元忠に命じて捜索させました。元忠は捜索に当たりましたが、やがて「どこにも見あたりません」と報告し、捜索は打ち切られました。ところが、この情報を先に家康に知らせた者が後に家康と話す機会があり、家康はこの旨を告げたところ、その者は家康の膝近くに進み出てこういいました。「その娘は元忠の家に住み着いて、今は本妻のように振る舞っておりますよ」。これを聞いた家康は、「あの彦右衛門という男は、若い頃から何事にも抜かりのない奴じゃわい」といって高笑いしたといいます。
さて、家康は上杉景勝征伐へと向かいます。慶長5年(1600)6月16日、大坂城西の丸に佐野肥後守を留守居として残し、前田玄以、増田長盛らの見送りを受けて大坂を出陣し、伏見へ向かいました。同夜に伏見に到着、元忠は自ら杖を突きながら、不自由な足を引きずって城中を歩き回り、御供の者にも牡丹餅と煎茶を振る舞ったといいます。翌17日、家康は伏見城の守備を本丸は元忠、松の丸は内藤家長、三の丸は松平近正・家忠へそれぞれ命じ、1600の兵と鉄炮200挺を預けました。その際、家康は「四人とも、今回の会津征伐への出陣が叶わず、こうして留守居を務めることを残念に思うではないぞ。大勢いる家中の者どもの中から、特にその方らをここに残すことは、よくよく考えてのことである。しかし、人数が少なく皆には苦労を掛ける」といったところ、元忠はこう返答しました。「私はそうは思いません。会津征伐は重要事、家人一騎一人たりとも多く連れて行かれるべきです。京大坂が今のように平穏なら、この城の守りは私と近正で事足ります。殿が出立の後、もし敵の大軍がこの城を囲むようなことになれば、近くに後詰めを頼む味方もおらず、とても防戦は出来ないでしょう。ということは、貴重な人数を裂いて少しでも城の守りに残すというのは、無益と存じます」。この夜、元忠と家康は昔話に花を咲かせました。元忠が家康に仕えた頃、すなわち家康がまだ今川の人質として肩身の狭い思いをして、苦労していた頃の話だったろうと思われます。主従水入らずで語り合い、あっという間に時間は過ぎていきました。やがて元忠は、「もう寝られませ」といって退出しようとしましたが、足が不自由なため思うように歩けず、家康は小姓らに「手を引いてやれ」と命じました。小姓らに支えられて退出する元忠の後ろ姿を見て、家康が泣いたといいます。
翌18日午前7時頃、家康は元忠ら四将に見送られ、井伊直政・榊原康政・本多忠勝父子ら錚々たる軍容をもって伏見を出陣しました。その後、元忠の予見した通り三成らは挙兵、真っ先に伏見城がその標的となりました。宇喜多・毛利ら西軍方は、伏見城攻めを協議していましたが、増田長盛の「伏見城は太閤様が日本中の人夫を集めて堅固に築城された、兵糧武器に至るまで事欠かない名城である。またこれを守る元忠以下の四将は、内府(家康)の若い頃から仕込まれた武辺者ばかり。さらに近隣に後詰めの城もなく兵卒に至るまで死にもの狂いで戦うであろうから、容易に城は抜き難い。幸い私は元忠を長年に渡って知っているので、城を明け渡すようまずは申し送ってみては如何であろう」という意見に、宇喜多秀家が同調して評議は一決、西軍方は増田家臣山川半平を使者として伏見城へ派遣しました。元忠は、この申し出を一蹴しました。彼は答えて曰く、「御口上は承った。しかしながら、内府は出陣の際に堅固に守れとの仰せである。内府直々の命令ならばいざ知らず、各々方からの申し出により開城することは出来申さぬ。どうしてもというなら、軍勢を差し向けなされ。この白髪首を引き出物に、城をお渡しできるであろう」。かくして、伏見城攻めは決行されました。その際、近江の代官岩間兵庫(光春)・深尾清十郎は甲賀衆5、60人を引き連れて、籠城勢に加わることを願い出、また家康の恩に報いようと、宇治の茶商上林(かんばやし)竹庵も共に籠城を願い出ました。元忠は竹庵に、「その方は町人、討死にしなくとも恥ではあるまい。我々も窮する余り町人まで籠城させたと言われるのも残念である。早く宇治へ帰られよ」と諭しますが、竹庵は聞き入れず、「私は内府に受けた恩は大で、今こそ町人にはなっているが、心まで町人ではない。今、当家の危急に臨んで去るのは人の道に外れる。願わくば、泉壌に茶を献じたい。強いて追い出されるならば、この場において腹を切る」と、顔色を変えて詰め寄ったため、元忠は彼らの入城を許したといいます。この上林竹庵は、元は丹波の武士でした。彼は元亀2年、三河に赴き家康に仕え、土呂郷で百石を与えられて郷吏となりました。天正18年に宇治に帰り、茶道を志し剃髪して竹庵と号したという経歴の持ち主です。
慶長5年(1600)7月15日、西軍は宇喜多秀家を総大将として大坂を出陣、四万の大軍で城を包囲しました。これに対して、元忠は自ら本丸を守り、二の丸には内藤家長・元忠と佐野綱正を、三の丸には松平家忠・近正を、治部丸には駒井直方、名護屋丸には岩間光春・多賀作左衛門、松の丸には深尾清十郎・木下勝俊(後に退城)、太鼓丸に上林竹庵をそれぞれ配し、徹底抗戦の構えを取りました。19日から、西軍の猛攻が始まりました。21日には、外濠まで詰め寄られて激しい銃撃戦が展開されましたが、元忠らは頑強に抗戦して10日余り持ちこたえました。しかし30日、攻囲陣の中にいて、甲賀衆を抱えていた近江水口城主長束正家は一計を案じ、鵜飼藤助なる者に命じて、城内の深尾清十郎ら甲賀衆に連絡を取らせ、「火を放ち寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を悉く磔にする」と申し送らせました。藤助は矢文を射込み、城内の甲賀者に内応を勧めたところ、郷里に残した家族を心配する甲賀者たちはこれに応じ、「今夜亥の刻に火を放って内応する」との返事を得ました。8月1日未明、伏見城の一角に火の手が上がり、城内の甲賀者はどさくさに紛れて城壁を壊し、西軍を引き入れました。もはやどうにもなりません。松平家忠・近正、上林竹庵らは次々と討たれ、本丸の元忠は奮戦して三度敵を追い返しましたが、もう彼の周りにはわずか10余人しか残ってはいませんでした。そして、遂に元忠の最期の時が来ました。元忠享年62歳。首は、大坂城京橋口に晒されたといいます。
○「伏見城」(京都市伏見区桃山町)
伏見は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地でした。伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は、朝鮮出兵(文禄の役)開始後の文禄元年(1592)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため、伏見指月(伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めました。このとき築かれたものを「指月伏見城」、後に近隣の木幡山に再築されたものを「木幡山伏見城」と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し、建物の大半が焼失しました。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて、京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができます。ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではありません。正伝寺の天井板はかつて科学的調査がされ、その際「人血であることは確認できなかった」のですが、「血液型は数種検出された」としています。 焼失した伏見城は、慶長7年(1602)ごろ家康によって再建され、元和5年(1619)に廃城とされました。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築されました。伏見城の跡には、元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになりました。
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