古戦場めぐり「関ケ原前哨戦・田辺城の戦い(京都府舞鶴市)」
◎『関ケ原前哨戦・田辺城の戦い』
「田辺城の戦い」は、慶長5年(1600)7月19日 から9月6日にかけて、丹後田辺城(京都府舞鶴市)をめぐり起こった戦いです。広義の関ケ原の戦いの一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎(東軍)を攻めました。大坂で蜂起した西軍は、伏見城攻めと並行して、細川氏の居城・丹後田辺城(舞鶴市南田辺)にも兵を差し向けます。幽斎は、忠興が出陣中で兵力の乏しい田辺城に籠もり、西軍を迎え撃ちます。
細川忠興の妻ガラシャ、名は玉子(玉とも)。明智光秀の二女(または三女)で、非常に美しい女性であったと伝えられます。天正6年(1578)に織田信長の媒酌により忠興と結婚しますが、天正10年に父光秀が本能寺の変を引き起こし、細川氏はその加担要請を断ったため、忠興から丹後味土野(三戸野とも・京都府竹野郡弥栄町)に幽閉されました。天正12年に復縁して丹後から大坂玉造の新邸に移り、のちキリスト教に帰依します。天正15年、公卿清原頼賢の娘で彼女の侍女として仕えていた清原マリアの手によって、洗礼を受けガラシャと称しました。
さて、関ケ原に際して、三成らは家康に従って出陣した諸将の妻子を、大坂城へ監禁し、西軍方に対する戦意を削ごうとしました。当然、玉造のガラシャの元へも慶長5年(1600)7月9日に入城要請が来ましたが、夫忠興から「どのようなことがあっても屋敷の外に出てはいけない。三成の人質として大坂城に入ることのないよう留意せよ」と、言い渡されていることもあって、彼女は敢然と拒否しました。このため、三成らは7月17日、兵500を差し向けて力ずくで彼女を拉致しようとしたのですが、これが裏目に出ました。当時細川邸には、家臣の小笠原少斎秀清と河喜多石見・稲富伊賀が守っていましたが、やがてこれらの警固兵達と激しい戦闘が起き、逃れられないと覚悟したガラシャは、屋敷に火を放たせ、「大坂方に矢を放ってはならぬ」と兵たちを戒めた上で、自らの命を絶ちました。その際に、キリスト教が自殺を禁じていることから、彼女は最後の祈りをイエス・キリストに捧げた後、家臣の小笠原少斎に命じて、長刀で胸を刺させたといいます。少斎は、彼女の遺体に練り絹の打ち掛けをかぶせ、火薬を撒いて火を付け、自らも燃えさかる炎の中で自刃しました。河喜多石見も自刃しましたが、稲富伊賀はガラシャの死を見て裏門から逃れ、そのまま行方不明となりました。のちに忠興が稲富の行動を憎み、捜し出して首を刎ねようとしましたが、その鉄炮の腕を惜しんだ松平忠吉が彼を召し抱え、稲富は後に尾張義直に仕えて幕府鉄炮方を務めたといいます。すなわち、元一色家臣で稲富流砲術の祖として知られる鉄炮の名人・稲富一夢斎祐直とは、この稲富伊賀のことです。
まさかこのような事態になるとは、夢にも予想していなかった三成らは、この結末に驚き、人質作戦は尻すぼみとなり、監視を強化するのみに止まりました。かなり穿った見方ですが、彼女の死により妻子を大坂に残して出陣中の諸将の心的負担が軽減されたともいえ、その意味では、家康が関ケ原で勝利を収めた遠因の一つともいって良いかと思われます。38歳で昇天した薄倖の美女・ガラシャの辞世の句。「ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」。ちなみに、夫忠興が彼女の死を知らされたのは、清洲へと行軍中の8月3日、伊豆三島においてでした。
三成らはこれと前後して、細川忠興の居城・丹後田辺城へ兵を差し向けました。守るは忠興の父・幽斎です。彼は17日まで宮津城にいましたが、日頃から親しかった三刀谷四兵衛孝和が偽って大坂方の先手となり、一族130人を率いて、田辺城下の幽斎家臣・佐方吉左衛門元昌宅に入ったことを知らされると、すぐに早舟を仕立てて田辺城に戻りました。ここで、大坂からの飛脚によってガラシャ夫人の奇禍を知らされた幽斎は、非常に残念に思い熟考の後に、国中の武具や弾薬を田辺城へと集めさせました。さらに、宮津・峰山の城にいる忠興の娘・妾と興元の妻らを急ぎ呼び寄せ、少し離れた久美城にいる幽斎の娘(松井佐渡守妻)には山中に隠れるよう指示します。そして三男の幸隆とともに城の備えを固め、市街を焼き払って大坂方と対峙しました。三刀谷孝和は、毛利氏に仕えた出雲の土豪三刀谷(屋)久扶の子で、父久扶が毛利輝元に疑われて出雲から追放されたとき、まだ幼かった彼は安国寺恵瓊の元で育てられ、成人後は毛利氏に従って朝鮮役で活躍しました。しかし、本領が安堵されなかったため同家を去り、京都洛外吉田山に隠棲、その神官吉田氏を通じて縁戚である幽斎と交際が始まったという人物です。彼は安国寺恵瓊から、旧主に復帰して丹後攻めの先鋒を務めるよう勧められ、大坂方が丹後攻略を意図していることを知ります。しかし彼は幽斎との交誼を重んじ、加えて亡父久扶が家康に味方するよう遺言したこともあり、幽斎に殉ずる決心をしました。そして、一族郎等20人を率い、田辺入城の道を選んだのです。関ヶ原の義将といえば大谷吉継や平塚為広が有名ですが、スケールこそ小さいものの丹後田辺にもこういう人物がいました。対する攻撃陣の主将格は、福知山城主・小野木重勝です。当時丹後地方には、一色家の残党がまだ数多く残っており、細川氏の麾下には属していたものの心から服してはおらず、あわよくばと考えている者も多かったといいます。重勝は、彼らが加担する旨を聞くや大いに喜び、首尾良く勝利の暁には一色の家系を取り立てることを約し、彼らをその麾下に組み入れました。
慶長5年(1600)7月20日に重勝らは丹後国へ乱入、翌21日には城近くの山々に布陣して三方から城を包囲して、銃撃戦が開始されました。その面々は、重勝をはじめ藤掛永勝・赤松広秀・谷衛友・川勝秀氏・小出吉政ら近郷の士を中心に、豊後の四将(竹中重利・中川秀成・早川長敏・毛利高政)を加えた、1万5000の大軍です。城兵はわずかに500、しかもこれは桂林寺・瑞光寺といった寺の和尚や弟子をはじめ、農民町人に至るまで寄り集まった人数で、はなから勝負にならない小勢ではありますが、幽斎方は一致団結して善戦します。教養人として知られる幽斎には、たくさんの弟子がいましたが、攻囲軍の面々にも幽斎を師とする者が少なくなかったといい、一説に西軍方は空鉄炮にて形ばかりの戦をしたともいわれています。とはいえ、何といっても1万5000の大軍、いずれ城は落ちます。幽斎は自分の死はともかく、過去に三条西実枝から伝授を受けた古今和歌集が焼失することを惜しみ、これを八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)に献上することを申し出ました。これを聞いて驚いた親王は、7月27日に侍臣大石甚助を田辺城へ派遣して開城勧告しますが、幽斎はこれを拒否しました。そして29日には親王に使者を通じて古今伝授を行い、併せて『源氏物語抄』を、また禁裏へは『二十一代集』を、烏丸大納言光広には『草(双)紙十二帳』を、前田玄以には『六家集十八帳』を、それぞれ使者に託して送り届けました。このときに添えられた短冊に書かれたのが、次の有名な歌です。「古へも今もかはらぬ世の中に 心のたねをのこすことの葉」。ここで、後陽成天皇が動きました。すなわち、勅使として権大納言烏丸光広・前大納言中院通勝らを、前田茂勝(玄以の養子)とともに下向させ、まず重勝らに「もし幽斎がここで落命するようなことがあれば、古今集の秘伝は永久に絶えるであろう。すみやかに城の囲みを解くように」との勅命を伝えました。重勝らはこれを奉じて囲みを緩め、勅使は城内に入って幽斎をも説得します。ここに至って幽斎も勅命を畏み、ついに城を明け渡すことを決意しました。これが9月12日のことでした。やがて攻囲軍の囲みは解かれ、一旦京都に復命しに戻った前田茂勝は再び田辺城に戻り、18日に幽斎とともに城を出、翌19日に丹波亀山城に入りました。
こうして田辺城の戦いは、幽斎の開城という結果で幕を下ろしたのですが、彼が城を出た18日の時点では、すでに関ケ原で西軍は大敗していたのです。そして程なく、西軍のために最愛の妻ガラシャを失った忠興が来着、父幽斎とも一悶着の上、すさまじい勢いで小野木重勝の福知山城へと攻め寄せます。怒った将の兵は強いです。福知山城へと向かう忠興は、紛れもなく怒っていました。
○「崇禅寺・細川ガラシャの墓」(大阪市東淀川区東中島)
戦国武将細川忠興の夫人ガラシャは、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の次女で、玉といいました。永禄6年(1563)の生まれ、忠興とは16歳で結婚。父光秀の起した事件のため、一族は皆殺しとなりますが、忠興は玉に手をかけるのに忍びず離縁し、丹後の味土野(京丹後市弥栄町味土野)に幽閉しました。3年後、豊臣秀吉は細川一族を味方に付けるため、玉を許し、夫婦は玉造に住むようになりました。その後、玉はキリスト教の教義に引かれ、たまたま忠興が秀吉に従い九州へ遠征中、 ガラシャという洗礼名を得ました。これは、忠興の意に染まなかったのですが、ガラシャ夫人は改宗することはありませんでした。慶長5年(1600)7月17日、関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしましたが、ガラシャ夫人はこれに従わず、老臣小笠原小斉に胸を突かせて37歳の生涯を閉じました。なお、忠興とガラシャ夫人が住んでいた玉造の屋敷跡に、「越中井」が現存しています。近くに、彼の茶の湯の師匠である千利休の屋敷跡と利休井が屋敷もあったと伝わり、忠興は千利休の門人で三斎と名乗っていました。豊臣秀吉が北野の大茶会のとき、三斎が使用したと伝わる井戸が北野天満宮の一隅に残っています。大阪市東淀川区東中島の崇禅寺にある「ガラシャ夫人の墓」(五輪塔)、墓の傍に「香林院細川玉子之墓」の石碑が建っています。石田三成軍勢に攻められ、焼け落ちた細川屋敷の焼け跡から、ザビエルの弟子オルガンチノがガラシャ夫人とその殉死者の遺骨を拾い、細川家ゆかりの崇禅寺に埋葬したと伝わります。
【越中井】(大阪市中央区森之宮)
この付近は大坂城城内三の丸で、「越中井」は細川越中守忠興の邸跡にあったものといわれています。昭和9年建立の石碑の正面題字は徳富蘇峰の揮毫で、正面に「越中井 細川忠興夫人秀林院 殉節之遺址」とあり、側面にはガラシャ夫人の辞世といわれる「散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の歌が彫られています。
【ガラシャ夫人の慰霊塔】
「越中井」の近くにあるカトリック玉造教会の庭には、「ガラシャ夫人の慰霊塔」が建てられています。死後350年を記念して、昭和25年に細川加羅紗頌徳会が建立しました。また、「聖マリア大聖堂」の前に、ガラシャ夫人と高山左近の像が建てられています。
○「田辺城跡」(舞鶴市南田辺15)
「田辺城」は、鎌倉幕府・室町幕府の八田守護所(丹後守護所)の後身ともされます。別名は舞鶴城(ぶがくじょう)。慶長5年(1600)に関ケ原の戦いが勃発すると、当主になっていた細川忠興は、石田三成率いる西軍の誘いを退け、徳川家康率いる東軍に加勢しました。 隠居していた藤孝は、自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城し、雲霞のごとく取り囲む西軍を迎え撃ちました。田辺城はすぐさま、石田三成の家老島清興の親族にあたる小野木重勝や豊臣家の重臣前田玄以の子茂勝が率いる西軍1万5000人もの大軍で包囲されると、50日にも及ぶ長期戦となりました。激闘の末、弾薬が尽きた藤孝は、自身のもつ古今伝授の書が戦火で忘却されるのを恐れ、それを後陽成天皇に献上しました。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で、西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられました。田辺城を開城した藤孝は、敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入りました。
ログインしてコメントを確認・投稿する