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2016年09月14日06:11

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古戦場めぐり「本圀寺の変・将軍足利義昭襲撃(京都府京都市)」

古戦場めぐり「本圀寺の変・将軍足利義昭襲撃(京都府京都市)」

◎『本圀寺の変』
「本圀寺(ほんこくじ)の変」は永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆らが京都本圀寺に仮御所を置いていた室町幕府15代将軍・足利義昭を襲撃したことによって生じた戦闘です。六条合戦とも呼ばれます。
永禄8年(1565)、三好長慶の死後、三好政権を支えた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)は永禄の変で13代将軍・足利義輝を討ったものの、今度は畿内の主導権をめぐって松永久秀と対立しました。
永禄11年(1568)、13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じる織田信長の軍勢の上洛作戦に、岩成友通ら三好三人衆は抵抗しますが、9月28日には信長と義昭の入京を許してしまい、9月29日には岩成友通が降参します。9月30日には芥川(大阪府高槻市)に、三好長逸や細川昭元が立てこもっていましたが夜には退散し、三人衆らは京都からの退却を余儀なくされました。10月に入り、池田(大阪府池田市)の池田勝正を攻撃して降参させるなどして、幾内・隣国は信長の支配に従うようになりました。10月22日には三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄を廃し、ついに義昭が征夷大将軍に任命されて皇都に居住します。10月26日、信長は、奉公衆と共に仮御所としていた義昭の本國寺の警護を、明智光秀を中心とする近江、若狭の国衆に任せて、自らは本国である美濃へ帰国しました。義昭を討って京の奪回をもくろむ三好三人衆、および、信長に敗れて美濃国から流浪していた斎藤龍興・長井道利らが南方の浪人たちを集め、信長のいない畿内の隙をついて、将軍義昭のいる本國寺を包囲します。こうして戦いの、火蓋は切られました。
永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆らは薬師寺貞春を先陣の大将として、本國寺へ攻めかかり、明智光秀ら織田勢と義昭が本國寺に立て篭りました。織田方・若狭衆の山県源内、宇野弥七の2人は名の知れた勇士であり、大将の薬師寺貞春の旗本に切ってかかり、多くの敵に手傷を負わせるも、最期は槍に突かれて討ち死にしました。堅固ではない本國寺でしたが、こうした奮戦もあって、負傷者や死人がごろごろと転がり、三好の軍勢は御所へ攻め入ることができませんでした。そして、陥落に至らぬまま日暮れとなったため、三好勢は兵を収めて翌日の戦闘に備えました。しかし翌1月6日になると、急報を聞きつけた畿内各地から足利・織田方の援軍が到着します。細川藤孝、三好義継、池田勝正、摂津国衆の伊丹親興、荒木村重らが、三好軍の背後から攻め寄せてきました。このため、不利を悟った三好勢は退却しようとしますが、追いつかれて、桂川河畔で交戦となります。結果的に優勢となった足利・織田方の勝利に終わり、三好方は高安権頭・林源太郎・小笠原信定らが討ち死にとなりました。一方、同日に岐阜に急使が到着し、信長は本國寺が襲撃された旨の知らせを受けました。信長は直ちに、上洛指令をだして京に向かうも、この日は珍しくあまりの大雪だったため、信長配下の人夫や下働きの者の中には、凍死者が数人出たといいます。そうした中で信長は、本来3日かかる行程を2日で走破し、1月8日に京都に到着したときには、信長と同時に駆けつけたお供は10騎もなかったといいます。本國寺に入った信長は、御所が安泰な様子を見て、戦功のあった池田衆の池田正秀らを賞した後、本國寺防衛の脆弱性を危惧して、二条城の造営を開始しました。

○「本圀寺」(京都市山科区)
「本圀寺」(ほんこくじ)は、京都市山科区にある日蓮宗の大本山(霊跡寺院)であり、六条門流の祖山です。山号は大光山。建長5年(1253)8月、高祖日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷に御小庵を構え、法華堂と号したことから始まります。歴史を調べてみると、本圀寺は昭和45年までは、堀川六条の現在は西本願寺の駐車場と門徒会館になっているあたりに、広大な伽藍があったのですが、何か奥の深い背景事情があって、山科の現在地に移転してきたようです。

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