古戦場めぐり「治承寿永の乱・宇治川の戦い(京都府宇治市)」
◎『治承寿永の乱・宇治川の戦い』
「宇治川の戦い」は、平安時代末期の寿永3年(1184)1月、源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦です。治承・寿永の乱の戦いの一つです。
京は攻めるに易く、守るに難い場所として、昔から知られていました。南側は大阪方面に大きく平野が広がっていますし、東側は山地ですが、街道が多くあり侵入は容易です。中でも、宇治橋があった宇治平等院鳳凰堂の近くが、渡河地点として、昔からたびたび戦場になってきました。平清盛に対して兵を挙げた以仁王(以仁王の挙兵)は、宇治川を挟んだ戦いに敗れ平等院付近で自害しました。その後、源義仲(木曽義仲)の大軍が平家を都から蹴散らすために侵入したのも宇治川でした。さらには、京で乱暴狼藉を働いていた源義仲を討つ為、鎌倉から派遣されてきた源義経らの軍は、宇治川で一番乗りを競っています。
源義経・源範頼が、木曽義仲を討つため、京に迫りました。入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北などにより脱落者が続出して千騎あまりに激減していました。義仲は500余騎で滋賀県の瀬田を、300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護しました。源範頼は大手軍3万騎で瀬田を、源義経は搦手軍2万5000騎で宇治を攻撃しました。これが「宇治川の戦い」です。義経軍は、矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入ります。佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」は、この時のことです。最終的に義経軍は宇治川を突破し、後鳥羽上皇を救出しました。木曽義仲は、北陸へ脱出を計りますが、源範頼の軍に補足され討たれました。
○「宇治川先陣の碑」(宇治市宇治塔川)
「宇治川先陣の碑」は寿永3年(1184)、宇治川合戦の先陣を競った故事の碑で、昭和6年に設置されました。平等院から橘橋を渡ると中州があり、宇治公園になっています。この公園は橘島ともいわれ、大きな桜の木の下に「宇治川先陣之碑」と刻んだ自然石の碑がたっています。先陣争いの場面で、佐々木高綱と梶原景季が躍り出たという橘の小島の位置は、地形が変わっているためよくわかりませんが、現在の宇治橋西岸の下流にあったと推察され、平家時代の橋は、今より200m程上流の位置にあったと考えられています。
【宇治橋】
宇治橋は、大和、近江、京都を結ぶ要衝の地にあり、幾度も合戦の舞台となりました。『平家物語』には義経軍と義仲軍の合戦だけでなく、源頼政の橋合戦のことも描かれています。宇治川は上流の天ヶ瀬ダムができて水量を調節しているので、流れは緩やかになりましたが、かつては急流で知られ、水害や戦乱によって宇治橋はしばしば破損、流失しました。南側の欄干上流に面して「三の間」といわれる張出は、のちの信長や秀吉時代、ここから宇治川の水を汲みあげ茶をたてたといわれています。
ログインしてコメントを確認・投稿する