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2016年09月12日06:07

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古戦場めぐり「平治の乱・六条河原の戦い(京都府京都市)」

古戦場めぐり「平治の乱・六条河原の戦い(京都府京都市)」

◎『平治の乱・六条河原の戦い』
「平治(へいじ)の乱」は平安時代末期の平治元年(1160)12月9日、院近臣らの対立により発生した政変です。
平治元年(1159)12月9日、源義朝と後白河上皇の近臣の藤原信頼らが、上皇が住む三条殿を急襲し、内裏に幽閉するという事件が起きました。さらに彼らは、当時随一の権勢を誇った院近臣・藤原通憲(みちのり=信西)を討ち、その首を晒しました。信西は、上皇の側近として権力を振るっており、信頼の目の上のたんこぶであったといいます。また信西は平清盛とも親しく、信西の権力の影響で、義朝をさしおいて清盛への恩賞を優遇するなど、義朝と信頼にとっては大きな共通の政敵でした。彼らは信西打倒のために結束し、清盛が熊野詣に出かけて京都を留守にしたことを機に、事を起こしたのです。このクーデターは、一時成功したかにみえましたが、急を聞いて帰京した清盛が策を用いて幽閉されていた上皇と二条天皇を奪回し、さらに六条河原で義朝と信頼の軍との戦いが始まります。清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、嫡男・重盛と弟・頼盛が出陣しました。平氏軍は予定通り退却し、洛中での市街戦の後、戦場は六波羅近辺へと移りました。この間に信頼は戦線を離脱し、義朝は決死の覚悟で六波羅に迫りますが、六条河原であえなく敗退しました。これが「六条河原の戦い」(六波羅合戦)です。
義朝と信頼は間もなく殺され、朝廷における源氏勢力の力は一気に衰えました。この乱は「平治の乱」と呼ばれ、勝利した清盛はさらに昇進し、やがては平氏政権の樹立に至ります。
この乱の原因は、3年前の保元の乱にまで遡ります。平清盛は、戦後の恩賞として播磨国を与えられ4ヶ国を知行国として獲得し、さらに大宰大弐の官位を与えられました。さらに信西とも親しかったために、その後さらにもう1ヶ国を知行国として与えられ、着実にその力を蓄えていきました。一方の源義朝は、父や弟など多くの犠牲を払ったにしては、恩賞は少なく、官位が左馬頭に上がったのみでした。義朝から見れば、信西が清盛と結びついていることが、恩賞が平氏に偏る原因と見えたようです。同様に、藤原信頼も反信西という点では義朝と一致していました。信頼も信西も後白河上皇の近臣でしたが、信頼は権勢を誇る信西を嫌っていたのです。さらに、反信西勢力はもう一つありました。朝廷策謀の中枢と評価されている、美福門院の一派です。美福門院と信西は、政権を巡って談判を繰り返しており、後白河の退位と二条の即位が決定されました。しかしその後、後白河の院近臣として権勢を振るう信西と、天皇につく美福門院一派の関係はあまりうまくいっていなかったようです。これらの反信西勢力が共同して事ことを起こしたのが、「平治の乱」であったと考えられます。源義朝、藤原信頼に、二条天皇の側近である藤原経宗(つねむね)と藤原惟方(これかた)が加わり、12月9日の三条殿の襲撃に至りました。
この襲撃で、後白河とその姉・上西門院統子が大内裏の一本御書所に幽閉されました。つまり、反信西側は上皇と天皇を擁したことになります。信西は京都を脱出しましたが、13日に宇治田原で首を斬られました。その首は大路を引き回されたうえに、17日には検非違使庁の門の前に懸けられていたといいます。
なお、信西の死については『愚管抄』では自害とされていることに対し、『平治物語』では殺害されたとされています。信西の首が検非違使庁の門前に晒された17日に、熊野詣に出かけた途中で事件を知った、清盛が京都に帰ってきました。しかし、清盛はすぐに反撃にうつりませんでした。六波羅の自邸に戻ると、義朝に対して名簿を差し出して、降伏の意を示しました。これが清盛の策で、義朝らが安心している裏で、清盛は藤原経宗らを説得して味方につけました。この狙いは、上皇と天皇の奪回にありました。義朝らが上皇と天皇を擁している限り、正統性は義朝らに存在するからです。25日、御所北門から女房車が出て行きました。見張りの武士は怪しみましたが、女性と見てそのまま行かせました。しかし、車の中に乗っていたのは女装した二条天皇だったのです。車は、そのまま六波羅の清盛の屋敷に入りました。さらに、後白河上皇も脱出して仁和寺に逃れました。清盛の策は見事に成功したのです。26日清盛の策略を知った義朝と信頼は、軍勢を率いて六波羅に押しかけました。清盛もこれを迎え討ち、六条河原で激しい戦いを繰り広げました。この戦いで義朝と信頼は敗れ、清盛の勝利に終わりました。
敗れた義朝は、都を落ち延び東国へ向かっていましたが、翌年1月4日に尾張の内海(うつみ)で、家人の長田忠致(ただむね)の裏切りにあって、風呂に入っているところを斬殺されました。義朝の長男で豪勇を謳われた源義平(よしひら)は落ち延び、その後も都の奪回を狙って潜伏していました。しかし、これも間もなく捕らえられて斬首となります。次男の源朝長(ともなが)は、父と共に落ち延びる途中で自害して果て、三男の源頼朝は雪の関が原で父とはぐれてしまい、2月9日に平頼盛(清盛の弟)の従者・平宗清に発見されて捕らえられました。藤原信頼は、上皇にすがろうとして仁和寺に走りましたが、許されずに捕らえられて六条河原で斬首となりました。一方、勝利した清盛は翌年に正三位参議に昇進し、出世の階段を駆け上ることになります。こうして源氏勢力は中央から衰退しました。摂津源氏の流れをくむ源頼政は、清盛に味方したために勢力を保持してはいますが、時代は平氏の全盛期を迎えることになります。

○「六条河原と駒止地蔵」(京都市下京区富小路通六条上ル)
下京区にある蓮光寺境内の地蔵堂には、「駒止地蔵」と呼ばれる大きな石の地蔵がまつられています。この地蔵は、もとは「六条河原」の刑場にまつられていたと伝えられ、別名「首斬地蔵」とも呼ばれています。六条河原とは、六条大路末の鴨川河原一帯をさします。平氏の乱において、源氏と平家が決戦を行った場所が六条河原です。現在の五条大橋以南から正面通辺りです。六条河原は東国へ抜ける街道である渋谷越(苦州滅路=くずめじ)に通じていたこと、葬送地である鳥辺野に隣接していたことなどから、平安時代末期よりしばしば合戦場(六条河原の戦い)となり、処刑場、首級の受け渡しの場でありました。列挙してみると、保元の乱では、清盛の叔父平忠正、その子長盛・忠綱・政綱・通正らが六条河原で斬首されました。平治の乱では、藤原信頼軍と清盛軍が六条河原で戦い、捕らえられた信頼はこの地で斬首されました。寿永3年(1184)、源義仲が、源範頼・義経軍に破れたのも六条河原でした。文治3年(1185)、処刑された平宗盛・清宗親子の首も六条河原にさらされました。中世以降にはさらに多くの人が、六条河原で斬首梟首されています。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成、安国寺恵瓊が六条河原で処刑されたほか、元和元年(1615)夏の陣の敗戦後、豊臣秀頼の子国松や長宗我部盛親らも六条河原で処刑されています。
駒止地蔵には、次のような伝説が伝えられています。「昔、平清盛が馬に乗って六条河原にさしかかった時、馬が動かなくなったので、その場所を堀りおこしたところ、地蔵尊がでてきた。」
六条大路末を東へ進むと、平家の本拠地六波羅へとつながります。また六条河原という場所が、源平時代のいくたびかの戦いの場として登場し、斬首や梟首という悲惨な光景を繰り返していました。

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