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2016年09月11日06:06

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古戦場めぐり「応仁の乱(京都府京都市)」

古戦場めぐり「応仁の乱(京都府京都市)」

◎『応仁の乱』
「応仁の乱」(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)までの約10年間にわたって継続した内乱です。応仁元年(1467)に起きたことから応仁の乱と呼ばれますが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱とも呼ばれます。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領の細川勝元と室町幕府侍所所司(頭人)の山名持豊(出家して山名宗全)ら有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大しました。
室町幕府8代将軍の足利義政は、男子に恵まれず跡継ぎ問題に困っていました。そこで、義政は弟の義視(よしみ)に後を継がせることに決めます。ところがその後、妻の日野富子との間に(義尚・よしひさ)という男子が生まれてしまいます。親としては、自分の子に後を継がせたいと考えるのは当然のこと。そこに、妻である日野富子の強い説得もあり、義政は後継者を義視から子の義尚に変更してしまうのです。それに怒ったのは義視です。これにより、将軍家は義尚派と義視派の2手に分かれてしまいます。
同じ頃、有力守護大名の畠山氏や斯波氏の家でも家督争いが起こっておりました。畠山氏の家では、将軍家とほとんど同じパターンです。畠山持国(くにもち)には、跡継ぎができなかったため、弟の持富(もちとみ)を養子にしますが、その後、義就(よしひろ)という実子が生まれてしまいました。そこで、弟、持富の子である政長(まさなが)と持国の実子、義就の間で跡継ぎ争いとなります。
また、斯波家でも斯波義健(しばよしたけ)の養子である義敏(よしとし)が重臣と対立し、家督を取り上げられると、新しく養子となった義廉(よしかど)と義敏の間で家督争いが始まります。
さらに、彼らは家督争いを優位に薦めようと、実力者を後ろ盾にしようと考えます。山名宗全や細川勝元です。実は、この山名宗全(やまなそうぜん)と細川勝元(ほそかわかつもと)も娘婿の関係なのですが、ちょうど、この頃対立していました。
そんなこんなで、細川勝元側(畠山政長、斯波義敏、足利義視)東軍約16万VS山名宗全側(畠山義就、斯波義廉、足利義尚)西軍約12万の争い勃発です。開戦直後、細川軍が足利義尚を主君として担ぎ、翌年には山名軍が義視を担ぐなど、敵味方入り乱れての戦乱は文明9年(1477)まで続きます。10数年もの間、戦い続けた結果、幕府や守護大名の衰退が加速化し、その後の群雄割拠の戦国時代に突入するきっかけとなりました。主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。

○「室町第跡(足利義満館跡)」(京都市上京区室町通今出川上ル東側築山南半町)
足利将軍室町第跡(むろまちだいあと)である、今出川通と室町通の爻わる交差点の北東角に立つ石碑(1915年京都市が建立)があります。現在遺構はほとんど残っていない。

○「相国寺」(京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701)
「相国寺」(しょうこくじ)は、日本の禅寺で、臨済宗相国寺派大本山の寺です。山号を萬年山(万年山)と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺)といいます。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石です。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられています。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身です。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭です。

○「上御霊神社」(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495)
「上御霊神社」(かみごりょうじんじゃ)の旧社格は府社。上御霊神社という社名は、下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としています。

○「擁翠園」(京都市上京区鞍馬口通新町東入岩栖院町59)
「擁翠園」(ようすいえん)は、池泉回遊式の日本庭園です。室町幕府第三代将軍足利義満の管領細川満元が、応永年間に金閣寺造営の余材で邸宅を築きました。応永33年(1426)、満元没後、岩栖院という寺に改められました。

○「持明院殿跡」(京都市上京区上立売通新町西北角カ)
持明院殿とは藤原基家(1132〜1214)の邸宅です。祖父基頼(1040〜1122)が建立した持仏堂の名に由来します。基家の娘陳子(北白河院、1173〜1238)が、後高倉上皇の妃だったことから、持明院殿は後高倉上皇(1179〜1223)・北白河院、後堀河上皇(1212〜34)の御所となりました。その後,文和2年(1353) 2月に炎上するまの間、後堀河第二皇子後深草天皇(1243〜1304)系統の上皇が代々ここを御所としたため、その皇統を持明院統と呼びます。持明院殿跡を示す石標は近年まで建っていましたが、現在は確認できません。

○「百々橋(どどばし)古戦場」(京都市西京区大枝北福西町2丁目300)
堀川通りを北上し宝鏡寺を右折した先に、「百々橋(どどばし)古戦場」あります。宝鏡寺を東に進むとそれらしい場所に、立札解説もあります。説明板によると、東軍の細川勝元と西軍の山名宗全とが数度にわたり合戦を行ったとあります。百々町と宝鏡院東町との間に、かつては小川がながれていたとのこと。百々橋はこの川に架かる橋だったようです。応仁の乱当時、付近ではこの橋を通るしか渡る手立てがなかったのだとか。このためここが激戦地になったようです。激戦になったと考えられています。実際にはここだけではなく、この周辺一帯が激戦地だったと思われます。

○「宝鏡寺」(京都市上京区寺之内通堀川東入百々町547)
「宝鏡寺」(ほうきょうじ)は禅宗寺院。宗旨は臨済宗系の単立。近世には皇女が入寺する尼門跡寺院でした。山号は西山(せいざん)。通称人形寺(にんぎょうでら)。

○「山名宗全屋敷跡」(京都市上京区堀川上立売下る西入藤木町)
堀川通りまで出ると、すると近くに「山名宗全屋敷跡」があります。山名宗全は応仁の乱の時の西の大将格。
【山名宗全舊蹟の碑】
さらに奥に「山名宗全舊蹟の碑」があります。これが、山名宗全屋敷跡を示す本当の石碑らしい。「山名宗全舊蹟」旧字体での刻文。説明板に、前半に応永十一年(1404)但馬国出石生まれ。名を持豊、出家して宗全と称し、外見から「赤入道」、所領から「六分の一殿」と呼ばれたことなどプロフィールについて書かれてあります。中盤からは応仁の始まり、いきさつと経過について。終盤は西陣の由来について書かれてあります。「西陣」ってよく聞くけど応仁の乱から来てるかと、ここで納得。山名宗全は西軍の大将格で、西軍は山名邸を中心に陣を敷いたことから、西陣の地名の由来になっているようだ。というわけでこの周辺一帯に陣を敷き、東軍と戦った模様です。

○「西陣跡」(京都市上京区・北区)
「西陣」(にしじん)は、西陣織発祥の地であり、織物産業が集中する地域である。京都市西陣で織られる高級絹織物の総称。京都の機業は平安時代の織部司 (おりべのつかさ) 以来の伝統をひき、紋織物の生産では日本最高の技術をもっていましたが、応仁の乱 (1467〜77) 後、技術者が京都を離れ,16世紀末頃から再び京都西陣付近へ集りました。

○「本隆寺」(京都市上京区智恵光院通五辻上る紋屋町330)
「本隆寺」(ほんりゅうじ)は、法華宗真門流の総本山。山号は慧光山。塔頭が8院(是好院、玉樹院、本城院、正寿院、玉峰院、本法院、宣妙院、慶成院)。

○「五辻殿跡」(京都市上京区五辻通千本東入北側)
「五辻殿」は、五辻南・大宮西・櫛笥末に位置した後鳥羽上皇(1180〜1239)の院御所。後鳥羽の御所は十数カ所知られていますが、これは上皇の生母七条院藤原殖子(1157〜1228)の弟坊門信清(1159〜1216)が造営したものです。元久元(1204)年から使われましたが,その後の状況は不詳。この石標はその跡を示すものですが、最初は五辻通浄福寺西入南側の五辻殿推定地に建てられました。のち、嘉楽中学校を経て1999年に現在地に移されました。

○「原田城」(大阪府豊中市曽根西町4-4)
「原田城」は、東軍の拠点の一つ。曽根駅から商店街を西に約500m行くと、住宅地の中に原田城の碑と案内板があります。原田城の築城年代や築城者は定かではありませんが、天文10年に管領細川晴元の家臣木沢長政が原田城を攻めていることから、天文年間初頭には原田城は存在したといえます。天文16年、三好長慶と細川晴元の抗争は激しさを増し、三好日向の守る原田城は、細川晴元の猛攻により落城しました。天正6年、織田信長による伊丹有岡城主・荒木村重討伐の際には、付城として中川清秀らが在城しました。

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