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2016年09月10日06:09

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古戦場めぐり「保元の乱(京都府京都市)」

古戦場めぐり「保元の乱(京都府京都市)」

◎『保元の乱』
「保元(ほうげん)の乱」は平安時代末期の保元元年(1156)7月、皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変です。
永治元年(1141)、治天の君(事実上の君主)であった鳥羽法皇は、長男である崇徳天皇に退位を迫り、自らが寵愛していた美福門院との子である当時2歳の体仁親王を即位させました。これが近衛天皇である。しかし即位の際に、近衛天皇は崇徳天皇の「皇太子」ではなく「皇太弟」と発表されてしまいました。系図上は同じ鳥羽天皇を父に持つ両者ですが、近衛天皇は崇徳天皇の后の養子であるため、本来ではあれば皇太子=天皇の子供として扱われるものです。自分の後継者が弟では、将来院政を敷くことが不可能になってしまうために、院政を望む崇徳天皇にとってこれは重大な遺恨となりました。即位した近衛天皇は病弱で、久寿2年(1155)17歳の時に崩御してしまいます。若年であった近衛天皇には子供が無く、皇太子も定めていませんでした。その状況で、次の天皇としてもっとも有力な候補に上がったのが、崇徳上皇の子供である重仁親王(当時16歳)でした。崇徳上皇も自らが院政を敷く可能性が出てくることもあり、わが子の即位を強く望みましたが、実際には別の候補であった、美福門院の養子の守仁親王(当時13歳)が上がりました。しかし、まだ幼い守仁親王が存命の父親を飛ばして即位するのはよくないのでは、との声が上がり、守仁親王が立太子するまでの中継ぎとして、一旦父親である雅仁親王(鳥羽法皇の四男、崇徳上皇の同母弟)が即位することになりました。これが後白河天皇である。この決定には、重仁親王が即位して崇徳上皇の力が強くなった場合、自らの立場が危うくなる美福門院、自らの娘が崇徳上皇の寵愛から離れてしまったことを恨む藤原忠通、さらに雅仁親王の乳母の夫であり権力が欲しい信西など、多くの権力者の意図が重なりあった故の結論でした。これにより、完全に崇徳上皇の院政という望みは完全に打ち砕かれることになります。
この時の藤原氏の氏長者藤原忠通には子供がなく、父・忠実は忠通の弟である頼長を養子にと提案し縁組をします。しかし、康治2年(1143)に忠通に基実が生まれると、忠通は養子である頼長ではなく、実子である基実に自らの地位を継承することを望み、頼長との養子縁組を解消してしまいます。久安6年(1150)、頼長が自らの養女を近衛天皇に入内させると、忠通も対抗しすぐに自らの養女を入内させ、「摂関の職についていない頼長の娘を皇后にすることはできない」と、鳥羽法皇に上奏します。鳥羽法皇は頼長の娘を皇后に、忠通の娘を中宮にすることで事態を収めようとしましたが、両者は収まりませんでした。この事件の後、忠実は摂政の地位を頼長に譲れと通告するも忠通は拒否したために、激怒した忠実は忠通の氏長者を剥奪し頼長に与え、忠通を勘当します。さらに忠実は、鳥羽法皇に対し忠通の関白を解任することを要求します。しかし、鳥羽法皇は忠実と良好な関係を持つ一方で、忠通が自らの愛する美福門院と良好な関係であるために、両者が和解することを望んだため、やはりどっちつかずの対応に終始してしまいます。結果、忠通の関白を解任しない代わりに頼長に内覧の権限を与え、摂関と内覧が両立する異常事態になりました。内乱になり実権を握った頼長は、学術の再興や政治の刷新など、多くの課題に対して意欲的に取り組んだものの、周りに妥協を許さないあまりにも苛烈な性格と、理想や論理を重視した結果現実的ではない政治などを行なってしまったために、次第に周囲から孤立していくことになります。極めつけは、従者同士の口論がきっかけで、鳥羽法皇の寵臣である藤原家成の邸宅を破壊する事件を引き起こしてしまいます。その他に、寺に逃げ込んだ罪人を強引に引きずり出すために流血沙汰を起こしたり、自分の意に介さない者への私的報復を繰り返すなど、枚挙にいとまがなく、近衛天皇や鳥羽法皇からの信頼をも失っていきます。このような行いを続けた結果、近衛天皇の死は忠実・頼長親子が呪詛した結果という噂が世間に流れ、頼長は内覧の権限を停止され事実上失脚します。
保元元年(1156)7月2日、鳥羽天皇が崩御します。3日後には早くも「上皇と頼長が結託し謀反を起こす」といった風聞が流れ、京中の武士の動きや軍を集めることを制限する綸旨が発令され、にわかに緊張感が高まります。さらに、7月8日には天皇側が頼長に謀反人の疑いをかけ邸宅を接収します。これは、鳥羽法皇崩御のタイミングから早急に合戦の準備をしていた天皇側に対し、頼長は合戦の準備をしていなかったため、優位を確信した天皇側が挑発をしかけたようです。結果、追い詰められた頼長は兵を上げて事態を打開するしか無くなってしまいます。
翌日夜中、上述の風聞を受け危機を感じた崇徳上皇が脱出し、新たに治天の君になることを宣言し有力な武将や貴族の味方を取り付けることを画策します。7月10日、頼長は崇徳上皇の宣言を拠り所に上皇を担ぐことを決意し、武士を集めたものの、すでに動きを止められていることもあり、平忠正、源為義といった、元々頼長・忠実と直接の主従関係のあった、ごく一部の人数しかあつまらず、これにより圧倒的劣勢に立たされることになりました。このため劣勢を挽回するために、為義の息子である源為朝は夜襲を提案するも、頼長はこれを認めず、自らに近しい寺社勢力からの兵を待つことにしました。一方天皇側は、この上皇側の一連の動きから、平清盛、源義朝(為義の長男)といった北面の武士の中でも、強大な軍事力を持つ武士を動員し、忠通もこちらに加わりました。出撃に際しては義朝が、「敵に弟である為朝がいるなら夜襲をしてくるに違いないので先に手を打つべき」と、先制攻撃を強硬に主張したようで、忠通は当初は反対していたもの最終的には押し切られたようです。
7月11日早朝4時頃、天皇側の夜襲で合戦に至るものの、源為朝の奮戦により戦線は膠着します。このため天皇側が新たな戦力とともに、上皇側の本陣の隣にあった藤原家成の邸宅に火をつけ、この火が本陣に燃え移ったことで上皇側は総崩れとなり、崇徳上皇と頼長は行方をくらましました。翌日出頭した崇徳上皇は、讃岐への配流が決まりました。天皇及び上皇の配流は、約400年ぶりのことです。頼長は、戦の傷が元で死にました。敗北した天皇側の武士の多くは、死刑に処されました。死刑自体350年ぶりであり、疑問の声が上がったようですが、知識人である信西に対して意見する人はいませんでした。長年平穏であった平安時代において、数百年振りに中央政権の闘争が武力で発揮され、天皇が流され、そして死刑が再開されるという非常に大きな事件に、世の中が大きく変わる予感を感じた人は、多かったのだと思われます。なお、結果的にこの乱で一番の被害を受けたのは摂関家であり、忠通は関白の座は死守したものの、自らの武士組織を解体され、頼長の所領を没収され、氏長者の任命権を天皇に握られてしまい、自主性を失ってしまった摂関家は以後没落していきます。反面、この戦いの裏で仕切っていた信西は、以後権勢を増していきます。ですが、そのあまり権勢が逆に貴族の反感を招き、平治の乱へと突入していきます。

○「白河北殿跡」(京都市左京区丸太町通東大路西入南側)
左京区の京都大学熊野寮内に「白河北殿跡」があります。白河北殿は,白河上皇の院御所で、南本御所に対して北殿や北新御所と称されました。その後は上西門院の御所となっていましたが,保元元年(1156)7月に崇徳上皇が移り住み,保元の乱の勃発とともに、平清盛らの軍勢によって焼失しました。ここにある石標は、その御所跡を示すものです。
保元の乱の戦いがあったのは、保元元年(1156)7月11日のことでした。崇徳上皇は、白河法皇の御所があった「白河北殿」に籠もっていました。対する後白河天皇は、「高松殿」を根拠地としていました。上皇方に居た源為朝は、小勢が多勢に勝つためには夜討ちしかないと主張したのですが、頼長は若年の為朝の意見を軽く見て、これを退けてしまいます。彼には、王家の戦いに夜討ちはふさわしくないという思いがあったともいい、また別には興福寺の援軍が来るという期待があったともいわれますが、結果としてこのことが敗因とみなされる様になります。

○「高松殿跡」(京都市中京区姉小路通釜座東入北側)
中京区の高松神明社前に、「高松殿跡」があります。高松殿は、平安京左京三条三坊三町にあった邸宅です。源高明に始まり、高明の娘で道長妻となった明子が伝領し高松殿と称されました。その後嘉保2年(1095)白河上皇の院御所としましたが、その所有者は院近臣の藤原顕季でした。康和5年(1103)宗仁親王(鳥羽天皇)の誕生に際し、一連の祝儀が当殿で挙行され、長じて鳥羽上皇の院御所となりました。久寿2年(1155)後白河法皇はこの地で位につき,以降里内裏となりました。保元の乱(1156)では、天皇方の拠点となり源義朝や平清盛が参集しました。平治元年(1159)に焼失しました。ここにある石標は高松殿の跡を示すものです。
【上記の続き】一方の「高松殿」では、義朝がやはり夜討ちを主張していました。後白河天皇方の軍事を主導していたのは信西なのですが、彼は勝つための実戦的な戦術としてこれを許可しました。こうして本来は劣勢な側が起こすべき夜襲を、優勢な側が行うという形で戦いは始まります。天皇方が夜襲を仕掛けてくると知った為朝は、これこそ私が恐れていたことだといって頼長を誹ったといいますが、失われた戦機は戻って来ませんでした。この時、清盛はちょっと面白い行軍の仕方をしています。高松殿から白河北殿は真東の方向にあったのですが、暦からその日は東が塞がりになると知った清盛は、方違いを行うために一度軍勢を南に向けて進め、三条のあたりで鴨川を渡り、その東岸を白河北殿に向かって北上しました。彼が最初に布陣したのが二条河原の東、堤の西といわれます。今の「夷川発電所」があるあたりでしょうか、ここを守っていたのが為朝でした。為朝は、劣勢な上皇方にあって超人的な働きを示しています。最初に襲いかかって来た清盛の郎党である伊藤六を鎧の上から射通して倒し、山田小三郎伊行という剛の者もまた弓のひと射ちで倒してしまいます。あまりの強弓に恐れをなした清盛は早々に陣を引き払い、別の門に向かったといわれます。彼の嫡男である重盛は、父親の弱腰に業を煮やして為朝に向かおうとしますが、郎等たちに引き留められてしまいます。為朝は、次に襲ってきた義朝の軍勢も射すくめて寄せ付けず、彼の奮戦もあいまって上皇方は善戦を続けました。時間を掛けていては、それこそ興福寺の援軍が来てしまうと焦った義朝は、火攻めを朝廷に上申します。近くには法勝寺などもあり、一度火を掛ければ広範囲に被害が及ぶ事が想定されたため、独断で行う事を恐れたのでした。高松殿でこれを聞いた信西は、法勝寺などは後白河天皇が健在であればすぐに再建できるとして、直ちにこれを許可します。勅許を得た義朝は白河北殿の西隣にあった屋敷に火を付けたところ、折からの西風に炎があおられて白河北殿に燃え移りました。拠って立つべき拠点を失った上皇方は敗走し、戦いは天皇方の勝利に終わっています。

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