古戦場めぐり「信貴山城の戦い(奈良県平群町)」
◎『信貴山城の戦い』
「信貴山(しぎさん)城の戦い」は、天正5年(1577)10月5日から10月10日にかけて、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城信貴山城で行われた攻城戦です。信貴山城は落城し、松永久秀は自決しました。別名「松永久秀討伐戦」ともいわれています。
乱世の梟雄との異名を持つ松永久秀は、もとは山城国西岡(京都市右京区)の商人だったといいます。やがて、当時、京都を制していた三好長慶に右筆(秘書)として召しかかえられ、永禄2年(1559)には、大和(奈良県)の攻略を任されるまでに成長します。しかも、3か月という短期間でその制圧を成し遂げた久秀は、敵からも味方からも一目置かれる存在になりました。この時、信貴山城を居城とした久秀が、四層の高さを誇る日本初の天守閣を築いています。
やがて、身内の不幸や内紛に意気消沈の長慶が亡くなると、幼い後継者を後見する三好三人衆とともに、第13代室町幕府将軍・足利義輝を暗殺し、自らの意のままになる将軍を擁立して、もはや主家の三好家にとって代わる勢いで、京都を制しました。ここで、亡き義輝の弟・足利義昭(よしあき)を奉じての織田信長の上洛です。この時、信長に対抗した三好三人衆をよそに、久秀は、茶器好きの信長の心をくすぐる名品=作物(つくも・九十九)茄子の茶入れを献上し、あっさりと降伏して信長の傘下に入り、信長から大和支配の許可を得ます。いや、降伏という言葉はふさわしくないかも知れません。おそらくは、いつか信長を倒すチャンスを得るための一時的なもので、24歳も年下の信長にすり寄ったのです。なぜなら、この後、久秀は2度も信長に反旗をひるがえすのです。
最初は元亀4年(1573)3月、信長と不仲になった義昭の呼びかけに応じて蜂起した石山本願寺、さらに姉川の合戦で雌雄を決しながらも、未だ抵抗する越前(福井県)の朝倉義景と北近江の浅井長政、復権を狙って近畿に舞い戻った三好三人衆などなど、まさに信長包囲網とも言うべき態勢ができあがった時でした。そこに、武田信玄上洛となります。大物の参戦をチャンスと見た久秀は、その義昭と同盟を結び、信長包囲網の一員となったのです。ところが、信玄は体調を崩し、途中から引き返してしまいます。そして4月、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。さらに7月には、将軍・義昭が京都から追放され、8月には浅井・朝倉がそろって倒されてしまいます。万事休すと感じた久秀は、あのルイス・フロイスが「この世の天国」と絶賛した、久秀築城の美しい城の多門城を信長に差し出して、またしても降伏します。それからは一転して、織田勢の一翼として石山本願寺攻めに参加する久秀でした。
しかし天正4年(1576)5月、またもや久秀の心がわりの展開となります。長島一向一揆を根絶やしにされ、信玄の後を継いだ武田勝頼が長篠の戦いで敗れても、未だ、信長に抵抗を続けていた石山本願寺が、越後(新潟県)の上杉謙信と和睦し、謙信が本願寺の味方についたのです。さらに7月には、毛利輝元の配下の村上水軍が大坂湾へ現れ、籠城する本願寺への物資の運び込みに成功します。しかも10月に入ると、いよいよ動き出した謙信が、能登・七尾城の攻略に取り掛かります。
翌天正5年(1577)8月、本願寺攻めに参加していた久秀は、天王寺砦の守りを無断で放棄し、居城の信貴山城へと戻って立て籠もり、謙信の上洛を待つことにしたのです。またしても、信長に反旗をひるがえしたのです。やがて9月に七尾城を落とした謙信は、すでに信長の領国となっていた越前へと迫ります。そのすぐ後の手取川での謙信・勝利の一報は、すでに68歳となっていた久秀にも「今度こそ!」という希望を抱かせたことでしょう。逆に、久秀の謀反に驚いた信長は、堺の代官・松井友閑を使者として信貴山城に派遣して、あの神をも恐れぬ信長とは思えない温情あふれる説得をします。しかし久秀は、そんな話し合いも拒否します。ところが、こんなに強気の久秀をよそに、頼みの謙信は、手取川で信長配下の柴田勝家を破ったにも関わらず、なぜか、その先へは進まず、越後へと戻ってしまうのです。そこで、交渉を拒否された信長は、配下の筒井順慶・明智光秀・細川藤孝(幽斎)を、信貴山城攻略へと向かわせます。間もなく順慶らは、信貴山城の東の位置にある法隆寺に陣取りました。10月1日、その法隆寺を進発した彼らは、まずは、信貴山城の支城である片岡城(奈良県北葛城郡上牧町)を攻め、ここを守っていた海老名友清・森正友らを討ちとり、片岡城を落城させました。そして、その2日後の10月3日、信長の嫡男・織田信忠が安土から着陣して信貴山城を包囲します。さらにそこへ、「もはや、謙信の進軍はない」と判断した信長の命によって、遠征していた北陸から引き揚げてきた羽柴秀吉、佐久間信盛らの援軍も賭けつけました。しかし、信長はすぐには攻撃させません。信長の意向を伝えに、櫓の下につけた信盛が平蜘蛛の茶釜を差し出せば、謀反を起こした久秀を、信長はまたもや「許す」ということです。しかし久秀は、「平蜘蛛の釜と我等の頸(くび)は、粉々に打ち壊すことにいたす!」と宣言し、その和解案を一蹴します。
かくして10月5日、信貴山城への総攻撃が開始されます。しかし、さすがは築城名人の久秀の城です。その堅固な造りは、わずか8000の城兵にも関わらず、4万の大軍の攻め手を翻弄し、すぐに落とすことはできませんでした。長期戦の様相を呈してきた信貴山城攻防戦ですが、10日に変化がありました。久秀の配下となっていた森好久。実はこの人、もと筒井順慶の家臣だったのですが、以前、順慶が久秀と戦って敗れた時に浪人となり、その後、久秀の配下となっていた人物です。10月10日早朝、この好久が、配下の200名の鉄砲隊とともに反乱を起こし、三の丸を焼き打ちにします。すでに順慶に通じていたようです。さすがの堅固な城も、内部からの崩壊には対処できず、またたく間に総崩れとなってしまいました。覚悟を決めた久秀は、いつものように中風の発作を防ぐお灸を頭のてっぺんに据え、首を取られないよう自らの顔を焼き、信盛に言い放った通り、平蜘蛛の茶釜を叩き割って、壮絶な爆死を遂げたのです。この茶釜の叩き割りに関しては、実は叩き割ったのはニセ物で、本物はこっそりと茶の湯仲間の柳生重厳(宗厳の父)に送っていたという話があります。この信貴山城の戦いでも、信長の言う通り、茶釜を差し出して降伏すれば、また助かったかも知れません。男・久秀・68歳。その最後の意地で、信長が欲しがっている茶釜とともに自らの命を絶ち、その望みを断ち切ってやることで一矢報いたのかも知れません。
○「信貴山城跡」(平群町信貴畑)
「信貴山城」は、木沢長政・松永久秀の居城で、大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城です。信貴山は、大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀は山上に南北700m、東西550mに及ぶ城郭を築いて、大和経略の拠点としました。
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