古戦場めぐり「太田城の水攻め(和歌山県和歌山市)」
◎『太田城の水攻め』
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康軍と羽柴秀吉軍の間で戦が起こっていた時、徳川家康は太田衆、雑賀衆、根来衆らを味方になるように誘い、『日本城郭大系』によると、大坂までは攻め上がりましたが、太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍が独自に、その誘いには応じない判断としています。当時根来寺を中心に「紀州惣国一揆」と呼ばれ、寺領72万石を有し3万兵の僧兵を養っていました。羽柴秀吉はこの寺領を全部納めるよう命じましたが、抵抗を態度で示しました。『日本城郭大系』によると、「これが紀州征伐の原因となった」と記載しています。
天正13年(1585)3月10日、羽柴秀吉自らが総大将に、羽柴秀長、羽柴秀次を副将とし10万兵で出陣し、3月21日、千石堀城から太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍の諸城を次々に落城させていきました。次いで3月23日、風吹峠と桃坂の二方向から根来寺を攻め立てました。根来寺は当時堅固な要害でしたが、焼き払われてしまいました。羽柴秀吉軍の次の目標は、太田城に向けられました。
羽柴秀吉軍が太田城に攻城した時は、6万とも10万とも呼ばれています。しかし、太田衆と根来衆の残存兵力を合わせてもわずか3000〜5000で、この時雑賀衆の一部は羽柴秀吉軍と手を結び、また総本山であった根来寺も焼かれ、孤立無援の絶望的な状況でした。しかし、太田左近は城兵に対して、「小城ではあるが堀は深く櫓は高い。一度秀吉に弓を引いたのだから、大軍を恐れて降参するのは、勇士のすべきことではない。この城を枕に潔く戦死する覚悟だ」と説いて、士気を鼓舞しました。羽柴秀吉軍は、堀秀政が率いる先陣3000と長谷川秀一が率いる第二陣3000の合計6000の斥候隊を繰り出して、太田城へ向けて攻撃を開始しました。田井ノ瀬橋付近から紀ノ川を渡河しましたが、そこに太田城からの待ち伏せがあり、鉄砲隊と弓隊から攻撃され53名が討ち取られました。斥候隊の敗北により、容易には攻め切れずとみたのか、得意の水攻めに切り替えました。3月25日、紀の川の水をせき止め、城から300m離れた周囲に堤防を築きました。300mというのは、鉄砲の射程距離です。堤防の高さは3〜5m、幅30mで東の方は開け、6kmにも及んだといわれています。工事に要した人数は46万9200名。昼夜の突貫工事で、6日間で仕上げたといわれています。4月1日より水を入れ始め、4月3日から数日間大雨が降り続け、水量が増し始めました。そのため、城の周りは浮城のような状態になりました。水で囲まれた太田城に、羽柴秀吉軍は中川藤兵衛に13隻の安宅船で攻めさせました。船の先端には大きな板を建てて、鉄砲や弓矢から攻撃から守るため改造しましたが、太田城の城兵の中で水泳の名手を選び、船底に次々と穴をあけ沈没させ、また押し寄せる攻城兵には鉄砲で防戦しました。また、4月9日、松本助持が切戸口間の堤防150間決壊させ、宇喜多秀家の陣営に多くの溺死者を出しました。この時、羽柴秀吉軍は60万個の土俵を使って、数日に堤防を修復したと伝わっています。太田城では、増水するにつれて工夫して防衛してきましたが、1ヵ月になる籠城に、次第に物心両面で衰えが見え始め、4月24日蜂須賀正勝、前野長康の説得に応じて、太田左近をはじめ53名が自害しました。根来寺落城から、1ヵ月のことでした。自害した53名の首は、城の三箇所に埋められました。現在玄通寺の近くに「小山塚」という大きな碑が建っていますが、これが3つのうちの1つとなっています。
戦後処理をすました羽柴秀吉は、4月25日には開陣し、4月26日には大坂城に帰城します。その後羽柴秀吉軍は、3万兵で6月6日、堺から洲本に向い四国征伐へと続いていきます。また、羽柴秀吉自身は7月には関白に、9月には豊臣秀吉に改名しています。なお、三大水攻めとは、備中高松城、忍城とこの太田城の水攻めのことをいいます。
○「来迎寺(太田城跡)」(和歌山市太田2丁目)
戦国時代、「来迎寺」には太田城の本丸があったとされ、境内には太田城址碑の他、紀州征伐で命を落とした戦没者慰霊碑、太田党を率いた太田左近の妻・砂の墓と伝えられる小さな墓があります。和歌山市橋向丁にある大立寺の山門は、太田城の大門が移築されたものです。説明板によると、城の範囲は現在の来迎寺、玄通寺(来迎寺のすぐ南の寺)を中心に東西250m、南北200mで、周囲に深い堀をめぐらし、東に大門を持っていたようです。
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