古戦場めぐり「秋葉山の戦い(和歌山県和歌山市)」
◎『秋葉山の戦い』
秋葉山は、戦国時代に全国に名を轟かせた雑賀衆の砦、「弥勒寺山城」があった場所として知られています。
天正4年(1576)、石山本願寺を攻めた織田信長は、本願寺方についた雑賀衆の鉄砲による攻撃で、大きな損害を被りました。これに脅威を感じた信長は、翌天正5年(1577)、雑賀衆の本拠地である紀州へ討伐軍を送り込みました。信長軍は、10万人の大軍を擁して攻め込み、対抗する雑賀衆の軍勢はわずかに数千人でした。数に勝る信長軍は、弥勒寺山に立てこもる雑賀衆に対し、和歌川をはさんだ南岸から、騎馬隊を先頭に力まかせに攻めかかります。ところが、雑賀孫一率いる雑賀衆は、これを予測してあらかじめ川の中に「馬防柵」という木の柵を設けるとともに、川底におびただしい数の壺や桶を埋めていたのです。一気に攻め寄せる信長軍ですが、川の中途で馬防柵に行く手を阻まれて立ち往生すると同時に、馬が川底の壺や桶に足をとられて、次から次へと倒れていきます。にもかかわらず、後方からは続々と徒歩の兵が押し寄せてくるため、信長軍は川の中で、進むことも退くこともできない状態になってしまいました。これを待ち構えていた雑賀衆は、複数人が組になって火縄銃の清掃、弾と火薬の装填、点火準備、射撃などの作業を分業する戦術(これが雑賀衆の強さの秘密!)を用いて、熟練の射手が山上から息もつかせぬ速度で、正確に鉄砲を連射し続けます。反撃しようとしても、川から山の上に向かって撃ち上げる形となる、信長軍の銃弾は雑賀衆の兵にまでは届かず、信長軍は事実上何もできないまま次々と倒れていったのです。とはいえ、雑賀衆も信長軍を一気に撃破するほどの戦力は無いことから、このあと戦況は和歌川をはさんで、約1ヶ月にも及ぶ膠着状態に陥ります。予定が狂った信長軍は、「織田軍苦戦」の噂が全国に広まると、本願寺などの反織田勢力が反撃に出る恐れがあるため、雑賀衆に対し、「本来ならば成敗するところだが、降伏するなら許してやる」という書状を送りつけます。要するに、「まいりましたと言ったら、今日はこれぐらいにしておいてやる」という強がりです。
○「弥勒寺山城」(和歌山市秋葉町)
秋葉山公園の中に、「弥勒寺山城跡」があります。遊歩道を山頂目指して5分ほど進むと、開かれた広場に出ます。この広場の西側一段高いところの奥に展望台があり、和歌山城も遠目に見えます。広場の東側には、少し盛り上がったアスレチックの置いてある場所があり、ここが本丸跡のようです。その前に建てられた説明板に、天正5年に秋葉山合戦があったことが書かれていますが、ほかには何も遺構はありません。
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