古戦場めぐり「石山合戦・信長の雑賀攻め(和歌山県海南市)」
◎『石山合戦・信長の雑賀攻め』
紀州征伐(紀州攻め)とは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことです。一般的には、天正5年(1577)の信長による「雑賀攻め」(雑賀侵攻)、天正13年(1585)の秀吉による「紀伊攻略」を指します。
信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまりませんでした。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の、蟠踞する地だったからです。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのです。
元亀元年(1570)に始まった石山合戦は、本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていました。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた、雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつけます。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのです。天正4年(1576)5月頃から、織田方の切り崩し工作が始まり、翌天正5年(1577)2月までに、雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷の、いわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功します。雑賀衆の降伏により、信長は兵を引きました。(第一次雑賀攻め)
しかし雑賀衆は、一旦は信長に降伏しましたが、半年後の8月には再び信長にすぐ叛きました。それは、信長にあくまでも従おうとする雑賀三緘衆に対して、雑賀孫市が不満を抱いたことから、戦闘状態となりました。仲間割れです。信長は、雑賀三緘衆への援軍として佐久間盛政を雑賀に派遣し、井の松原(海南市)で激戦となりますが、敗北してしまいます。(第二次雑賀攻め)
1580年、本願寺住職の顕如が信長に降伏し石山合戦は終結、顕如は雑賀の鷺ノ森別院に逃れました。
1582年、信長は今度こそ顕如と雑賀衆を根絶やしにすべく、神戸(織田)信孝と丹羽長秀に命じ、1万7000の軍勢で三度目の雑賀攻めを行いました。憂いは事前に全て取り除け、といったところでしょうか。200名足らずの雑賀衆は、織田勢の急襲にあわて、雑賀孫市が負傷するなど防戦一方となりましたが、その間に本能寺の変が起こり、その報を受けた織田勢は、急遽包囲を解き退却していきました。雑賀孫市はこれに喜び、負傷した身体のまま踊り狂ったといわれ、これが雑賀踊りの発祥とされます。(第三次雑賀攻め)
○「井松原古戦場」(海南市日方)
井松原の戦い当時、海南駅の東側には井引の森があり、その西側が海で松原が続いていました。それで井松原といいます。大野郷で大野十番頭という血縁関係のある土豪が結束して、織田信長の雑賀攻めに協力しました。鈴木孫一は同じ雑賀衆でありながら、敵方についた大野郷方を攻めました。戦いは、午前7時ごろから丸一日費やし、双方に200人の戦死者を出して、日方の砦が落とされました。
天正5年(1577)8月16日、鈴木孫一が支援する名高と織田信長についた日方とが井引で戦闘となりました。事の起こりは、2月から3月の信長の雑賀攻めに三緘衆が協力したことに、鈴木孫一が激怒して南郷の大野郷の土豪を攻めたことに始まります。大野郷側は日方に砦を築くと、反大野側は山田川の南の名高に陣を布いた。そして、両軍がぶつかったのが井引です。戦いは両軍に多数の犠牲者を出して、日方勢の敗北となりました。孫一のこの動きを信長は予想していたらしく、7月に畿内の織田軍に紀州へ出陣できるよう動員を掛けています。
【永正寺】
飛鳥井正二位権大納言宗俊公の嫡子である、上蓮社果誉上人の開山。御柏原天皇より永正寺の勅額を賜り、山門に掲げるによって門前の町を御門町といいます。天正5年(1577)の兵火により焼失というので、今回の戦いのことのようです。日方の大将だった田嶋甚五郎長吉の墓があります。
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