古戦場めぐり「石山合戦・第一次木津川口の戦い(大阪府大阪市)」
◎『石山合戦・第一次木津川口の戦い』
「木津川口の戦い」は、石山合戦において発生した局地戦で、次の「第一次木津川口の戦い」と「第二次木津川口の戦い」があります。第一次木津側口の戦いは天正4年(1576)7月13日、織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺への兵糧搬入を目的とした、毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、それを阻止する織田方の水軍戦力が、大阪湾木津川河口で激突しました。実際の戦闘では、毛利方の水軍の使用する焙烙玉・雑賀衆の使用する焙烙火矢の前に、織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、石山本願寺への兵糧搬入という当初の目的を毛利方が果たす結果となりました
天下統一を目指す織田信長、対して宗教による団結で権力に支配されない自由都市を運営する本願寺。その対立は、ついに元亀元年(1570)、大坂・石山本願寺の法主・顕如(けんにょ)による全国の本願寺門徒への「身命を捨てて法灯を守れ!」の呼びかけによって、「石山合戦」へと突入します。途中、信長によって将軍の地位をないがしろにされた足利義昭の呼びかけに応えて、石山本願寺に強力した武田信玄や上杉謙信・朝倉義景(よしかげ)・浅井長政などによる信長包囲網が敷かれ、すべてを敵に回して戦うことになった信長でしたが、天正元年(1573)には浅井・朝倉を倒し、翌天正2年(1574)には長島一向一揆を潰し、続く天正3年(1575)5月に、信玄亡き後の武田を長篠の合戦で蹴散らし、10月には一旦本願寺との講和を結びますが、かりそめの講和は翌天正4年(1576)5月3日、天王寺合戦において破られました。
天王寺合戦の後、砦の数を増やして本願寺を包囲する信長。一方、包囲されたとなると、本願寺は籠城戦をせざる得なくなるわけですが、籠城戦となると何より重要なのは兵糧の問題です。籠城というのは、防戦一方の戦いで、そのままでは破滅へと向かう戦い方なわけですが、ただ一つ、勝てるとしたら長期に渡る籠城しかありません。そんな中、ここに来て西国の雄・毛利輝元が、叔父の吉川元春・小早川隆景とともに、本願寺の支援へと重い腰をあげます。毛利の一番の強味である水軍を大いに活用し、本願寺へ海路による兵糧の運び込みをしようというのです。本願寺の兵糧を満載した数百艘の船団が、その護衛をする村上水軍中心の約300艘とともに大坂湾に現れ、和泉(大阪府)の貝塚に到着したのは7月12日のことでした。ここで、紀州の雑賀水軍と合流した船団は、一路、堺から木津川口へと向かいます。対する信長勢は、大きな櫓を乗せた安宅船・約10艘を中心に武者船・300艘を左右に広く配置し、待ちうけます。
かくして、この10年に渡る織田信長と石山本願寺との戦い(石山合戦)のさなか、天正4年(1576)7月13日、第一次木津川口の海戦が幕を切って落とされます。まるで通せんぼをするがのごとく、横一列の織田水軍に、縦の編制で挑む毛利配下の村上水軍は、水軍独自の艦隊編制の陣形をとり、ほら貝の合図が鳴ると、あらかじめ決められた役割分担による見事な連携プレー攻撃を開始します。村上水軍の指揮をとるのは、父・村上武吉の名代として参戦した24歳の若き司令官・村上元吉でした。まずは、板などで高い壁を造り、その影にかくれるように射手をしのばせた盲船が、一斉に矢を放ちます。次に、2番手に控える焙烙(ほうろく)船が、敵船に焙烙を投げ込みます。そこには当然火の手があがり、船上は大混乱になります。突然の火災に慌てた兵士が、次々に海へと飛び込みはじめたら、3番手の武者船が、敵船に舳先をぶつけながら真横につけ、次から次へと刀を持った兵士が敵船へと乗り込み、船上の敵兵に斬りかかります。また、これらの攻撃に動じない強い船には、ノミを持った兵士が水中にもぐって敵船の下まで行って船底に穴を開ける鑿入り(のみいり)というゲリラ攻撃も同時進行させました。この陸戦に勝るとも劣らない見事な陣形の連携プレーによって、信長勢は大混乱となり、一方的な戦いとなってしまいました。もちろん、兵糧は石山本願寺に搬入され、本願寺側の士気も最高潮になります。
実は、この時の織田水軍は沼田氏や真鍋氏など、和泉・河内や摂津の名だたる水軍で編制されていたものの、毛利による兵糧搬入の噂を聞いての寄せ集め軍団で、とても毛利水軍・小早川水軍や村上水軍の連携には着いていけない状態だったのです。信長はこの海戦で手痛い敗北を喰らいました。再びの戦いは同じ場所で、1年4ヶ月後の第二次木津川口海戦を迎えます。ただし、同じ轍を踏まないのが信長です。この後、再びの戦いに登場するのが、村上水軍の焙烙に対抗すべく制作したあの鉄甲船と、それをフルに活用してくれる優秀な海の軍団、九鬼嘉隆率いる九鬼水軍と滝川一益の滝川水軍です。
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