mixiユーザー(id:7184021)

2016年08月29日06:11

1176 view

古戦場めぐり「石山合戦・若江城の戦い(大阪府東大阪市)」

古戦場めぐり「石山合戦・若江城の戦い(大阪府東大阪市)」

◎『石山合戦・若江城の戦い』
「若江城の戦い」は、天正元年(1573)に河内国若江城で行なわれた織田信長軍と三好義継軍の合戦です。織田方の佐久間信盛が率いる大軍の前に、内通者を出し敗北し、三好本家は滅亡しました。
元亀4年(1573)4月に武田信玄が死去すると、信長包囲網は織田軍の反攻を受けて一気に瓦解し、朝倉義景や浅井長政らは信長に討たれ、信長包囲網の黒幕である室町幕府第15代将軍・足利義昭は京都から河内の三好義継(義昭の妹婿)のもとに追放されました。しかし義昭は追放されたにもかかわらず、諸国の大名に対して信長討伐令の御内書を乱発し、義継も義兄に当たる義昭に次第に同調する動きを見せました。このため、信長は天正元年(1573)11月4日に上洛し、義継の討伐を決めました。
三好氏ではこの頃、内紛が起こっていました。義昭に同調して信長に反抗的な姿勢を見せる義継に対して、家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三人衆らは、信長の実力を恐れて信長に誼を通じ、義継にも信長への従属を勧めていました。このため義継はこの3人を遠ざけ、寵臣の金山駿河守武春を家老にして、反信長の姿勢を固めました。そして信長が派遣した佐久間信盛率いる大軍が、若江城に攻めてきます。義継は籠城して迎え撃ちましたが、肝心の義昭が、近臣だけを連れて堺に逃亡したために士気が奮わず、さらに主家もろとも滅ぼされることを恐れた若江三人衆が、金山駿河守を殺害し、佐久間の軍勢と内通して城門に引き入れてしまいました。このため、義継の敗戦は決定的となりました。義継は妻子一族を自ら殺害し、10日以上も奮戦して三好家当主としての意地を見せましたが、11月16日に至って遂に力尽き、近臣の那須久右衛門家富に介錯させて自害しました。
義継の死により、京都で栄華を思いのままにした三好本家も滅亡しました。その後、河内高屋城にあった三好康長も信長に降伏して、河内は織田氏の支配下に入り、若江城以外の河内の城は破却され、この国は織田家の石山本願寺攻めの拠点のひとつとして重要視されることとなります。

○「若江城」(東大阪市若江北町3)
「若江城」は、若江小学校の北東側にある若江公民館分館を中心とする一帯に築かれていたといいます。現在地表面の遺構はないようですが、発掘調査などによって二重の堀や土塁、建物跡、井戸などが検出され、瓦、土器、武器などが出土したといいます。公民館前に案内板、県道南側にも石碑などが建てられています。
若江城の築城年代は定かではありませんが、明徳年間(1390〜94年)から応永年間(1394〜1428年)頃に、畠山基国によって築かれたといわれています。河内国守護職の畠山基国が、朝方の拠点として築いたのが始まりとされ、重臣の遊佐氏を置きました。畠山持国の家督を巡る争いで、庶子義就と政長による畠山氏の内訌は、細川氏や山名氏をも巻き込み応仁の乱へと発展していきます。この中で若江城は争奪の的となっていきました。
天文年間(1532〜55年)始めには、近江国守護職六角氏の家臣若江下野守兼俊が居ましたが、天文6年(1537)に六角氏に叛いて攻められ落城しました。その後も六角氏配下の城として存続しましたが、後に三好氏の城となりました。
永禄11年(1568)、織田信長の裁定により若江城に三好義継、高屋城に畠山昭高が配されました。天正元年(1573)三好義継は織田信長の怒りをかつて信長の武将佐久間信盛に攻められると、若江三人衆が内応して落城し、三好義継は自刃して果てました。その後は本願寺攻めの拠点として利用されましたが、天正9年(1581)頃には廃城となっていたといいます。

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する