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2016年08月28日06:20

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古戦場めぐり「太平寺の戦い(大阪府柏原市)」

古戦場めぐり「太平寺の戦い(大阪府柏原市)」

◎『太平寺の戦い』
「太平寺(たいへいじ)の戦い」は天文11年(1542)3月17日、現在の大阪府柏原市太平寺周辺で行われた戦いで、10年間畿内で権勢をふるっていた木沢長政が三好長慶、遊佐長教らに討ち取られました。落合川合戦とも呼ばれます。戦場となったのは河内国の落合川上畠で、落合川とは大和川と石川の合流点付近の当時の呼び名です。太平寺とは、かつてこのあたりにあったと思われる寺院の名で、現在の地名「太平寺」のルーツともなっています。しかし、「上畠」というのはどこか分かりません。このあたりに「上畠」という地名はないし、似たような地名もありません。とはいえ、大和川と石川の合流点付近が戦場となったのは間違いのないようです。
山城国半国と河内国半国の守護代を兼ねる木沢長政は、もう一人の河内国半国の守護代・遊佐長教(ゆさながのり)らと対立していました。天文11年(1542)3月、木沢長政が支援する畠山政国の被官(上級武士に仕えた下級武士や土豪、要するに家来)、斎藤山城守親子を遊佐長教が暗殺したのをきっかけに、両者の間に戦端が開かれました。斎藤山城守親子の暗殺で、身の危険を感じた畠山政国は、高屋城を脱出し、信貴山城に逃げ込みました。遊佐長教は、畠山政国と対立している畠山稙長(たねなが、政国の兄)を擁立、1万の兵を高屋城に集結させました。これに驚いた木沢長政は、そのとき山城国あたりで細川晴元と対陣していましたが、直ちに陣を引き払って二上山城に入り、遊佐長教に対抗する態勢を整えました。信貴山城の畠山政国と連携し、高屋城の遊佐長教らを挟撃しようというわけです。信貴山城は高屋城の北東方向にあり、一方、二上山城は高屋城の南東方向にあります。
3月17日、木沢長政が偵察のために一隊を高屋城に向かわせたところ、高屋城から出撃してきた遊佐軍の先発隊と衝突、戦闘が開始されました。遊佐軍は、すでに本隊を動かしてきています。この状況を不利とみた木沢長政は、1万の兵のうち、3000を二上山城に残し、7000の兵を率いて石川の東岸を北へ向かって進撃しました。北には、畠山政国のいる信貴山城があります。長政の主君・畠山在氏の飯盛山城も北の方角にあります。こうした諸勢力と連携し、態勢を立て直したうえで、遊佐軍に対抗しようとしたのでしょう。兵力がほぼ同数であれば、城に立てこもって遊佐軍を迎え撃った方が良いようにも思えますが、遊佐軍に味方する勢力の合流により包囲、孤立させられることを嫌ったのかもしれません。これに対して遊佐軍は、木沢軍を追いかける形で、石川の西岸を北上しました。そして、ついに大和川との合流点、落合川で両軍が激突したのです。戦闘は、申の刻(午後4時ごろ)に開始されました。木沢軍は、ひたすら北へ脱出しようとしたのか、まず遊佐軍に打撃を与え、その隙に北へ向かおうとしたのか、詳しいことはわかりません。対する遊佐軍にしてみれば、木沢軍をこのまま北へ逃がすわけにはいきません。進路を抑え込んで、脱出を阻止しようとしたものと思われます。木沢軍の進路には、大和川が横たわっています。信貴山城へ向かうためには、これを渡らなければなりません。その左側面から遊佐軍が、石川を渡って攻撃してきます。まず、この攻撃を防ぐ必要があります。遊佐軍からすれば、木沢軍より先に大和川まで達する必要があったことでしょう。合流点の下流(北側)で大和川を渡って、木沢軍の進路を塞ぐ作戦に出たのかもしれません。とにかく、両軍の間に激しい戦闘が繰り広げられました。現在の大和川は、奈良県から西流してきた後、合流点付近から下流も、さらに西流していますが、当時の大和川は合流点付近から北上していました。戦闘開始約1時間後、合戦場に向かって南下してきた新手の軍がありました。遊佐長教に味方する三好長慶の軍でした。木沢長政に味方する畠山政国の軍ではありませんでした。三好長慶は、かつて、木沢長政に父・元長を殺された恨みを持っています。三好軍の木沢軍に対する攻撃は、激しかったようです。側面から新手の軍の攻撃を受けた木沢軍は、総崩れとなって敗走しました。しかし、遊佐・三好連合軍の追撃はさらに激しく、ついに木沢長政も討ち取られてしまいました。

○「太平寺古戦場跡(石神社)」(柏原市太平寺2-19)
柏原市太平寺にある石神社は、生駒山地南端に近い小高い丘陵の山腹に位置します。麓の境内に社務所が、高い石段を登ったところに社殿があります。この石神社付近が、太平寺古戦場跡だといわれています。
また、現在、柏原市安堂にある太平寺の共同墓地に木沢長政の墓と伝えられる五輪塔が残っています。江戸時代には、「キソドノ墓」と呼ばれていたようです。以前は集落の一画にあったそうで、そのあたりの小字名を「キソドノ墓」といいます。ここが、討ち取られた場所なのかもしれません。「キソドノ」は「木沢殿」がなまったものだろうか(「キザワドノ」→「キゾウドノ」→「キソドノ」)。それとも木曽義仲の方が有名だったから、このようになまって呼ばれていたのでしょうか。

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