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2016年08月27日06:12

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古戦場めぐり「元弘の変・千早城の戦い(大坂府千早赤坂村)」

古戦場めぐり「元弘の変・千早城の戦い(大坂府千早赤坂村)」

◎『元弘の変・千早城の戦い』
「千早城の戦い」は元弘2年(1332)、後醍醐天皇の倒幕運動(元弘の変)に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった千早城をめぐる包囲戦です。攻めきれず、幕府側が撤退して終わりました。千早城は、上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城です。
第96代後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行うことを夢見て、何度も水面下で謀反の計画を立てます。しかし、幕府に匹敵するような軍事力を持たない天皇でした。そこへ登場したのが、かの楠木正成です。心強い男を味方に得た天皇は、笠置山にて挙兵して、倒幕の狼煙(のろし)を挙げました。元弘元年(1331)9月28日、これが世にいう元弘の変です。しかし、幕府の大軍による総攻撃で、わずか一日で笠置御所はあえなく撃沈してしまいます。山中を逃げ回っていた天皇も捕らえられてしまいます。
一方の正成は、下赤坂城(大阪府千早赤坂村)に籠り、幕府軍相手に得意のゲリラ戦で奮闘します(赤坂城の戦い)。しかし、砦に毛の生えたような急ごしらえの城では太刀打ちできないと判断し、10月21日に自ら城に火を放ち、金剛山中へと姿を消しました。翌元弘2年(1332)3月には、後醍醐天皇が隠岐へ流されました。その後、後醍醐天皇の息子・護良親王が、各地の反幕府勢力をまとめ、11月、再び倒幕の狼煙を挙げ吉野山に立てこもります。護良親王は、各地の武士に令旨を発し、ここで再び登場するは、あの赤坂城の戦いで死んだと思われていた正成です。正成は、先の戦いで幕府側に奪われていた下赤坂城を、早々に奪回し、その勢いのまま、和泉(大阪府南部)から摂津(大阪府北部)へ進攻します。翌元弘3年(1333)、こうなっては幕府ものんびりとはしていられません。鎌倉から20万の大軍を畿内へ向けて発進するとともに、悪党・正成の首に多大なる恩賞をかけて将兵の士気をあおり、再びの全面戦争へと突入します。幕府による大軍の派遣を聞いた正成は、北方の最前線である上赤坂城を弟・正季(まさすえ)に300の兵をつけて守らせ、自らは、その南東に築いた千早城(大阪府千早赤坂村)にて、幕府の大軍への備えを計ります。やがて、阿蘇治時(あそはるとき)率いる8万の軍勢が、下赤坂城に迫ったのは、2月22日のことでした。3方を山に囲まれた天然の要害である上赤坂城。しかし2月27日、水の補給路を断たれたことにより、ついに落城してしまいます。正季は、ギリギリで脱出に成功し、金剛山へと敗走しました。
元弘3年(1333)閏2月5日、楠木正成の籠る千早城に、鎌倉幕府軍が攻め寄せました。千早城は金剛山中にあり、3方を渓谷に囲まれた天然の要害でしたが、周囲は4kmほどの小さな山城で、守る兵もわずか1000ほどでした。そこへ、幕府全軍・20万が攻め寄せます。いよいよ幕府軍は攻撃を仕掛けてきますが、あまりの数の差に、ちょっと自信過剰だったのか、幕府軍には大した作戦も計算もなく、各将兵が自分勝手に我先に攻め寄せたため、例のごとく、大石を落したり、糞尿をかけたりの正成お得意のゲリラ戦法にしてやられてしまいます。幕府軍は先の上赤坂城同様、水源を断っての長期戦に切り替えますが、すでに正成はお見通しです。準備万端、千早城にはすでに、たっぷりの水を確保して、正成側もその長期戦を受けて立つのです。
ここで出たのが、奇策「わら人形の策」です。ある日、正成はわらで作った武者人形を20〜30体用意し、夜のうちに城外の山の麓に人形を並べます。やがて、白々と夜が明けるところを見計らって、後方から一斉に鬨(とき)の声をあげます。決死の攻撃に出たと思った幕府軍は、一斉に雨あられのように矢を射かけます。しかし、当然の事ながら、いくら矢を射かけでも兵(人形)は倒れず、やがて、矢が底をついてしまい、更なる攻撃をと敵が前に殺到したところで大石を投げ落とします。これで、敵兵は300人が即死し、500人が負傷、しかも、正成は、新たなる10万本の矢を手に入れることができたといいます。この「わら人形の策」は、あの『三国志』の赤壁の戦いで諸葛孔明がやった奇策にそっくりです。
次に、「長梯子の計」と呼ばれた作戦です。ある時、なかなか落ちない千早城に業を煮やした幕府軍が、京都から5000人の大工を呼び寄せ、幅4.5m長さ30mのハシゴを造らせ、これを向かい側の山から城壁へと渡して、新たなルートを確保し、そこから一気に城内へ攻め寄せようとします。これに気づいた正成は大量の水鉄砲を用意し、その水鉄砲の中に油を仕込み、ハシゴに向かって噴射します。たっぷりと油がしみこんだハシゴに、今度は燃え盛る松明(たいまつ)を投げつけ、ハシゴは一気に炎に包まれます。驚く前方の兵の足は止まりますが、後方の兵は止まらず、押し合いへし合いになったハシゴの上は大混乱です。しばらくして、中ほどから焼け落ちるハシゴとともに、兵は谷底へと落ちていきます。この「長梯子の計」も、中国の春秋戦国時代(紀元前770〜403年頃)の書物『墨子(ぼくし)』の中に登場するものです。
とは言え、少ない城兵でありながら、千早城が幕府の大軍の攻撃によく耐えました。最初の攻撃から約3ヶ月後の5月10日、結局、幕府軍は千早城を落すことなく、包囲を解き撤退することになるのですが、それは、この千早城が耐え抜いたことで起こった情勢の変化で、幕府は、もう千早城どころではなくなってしまっていたのです。すでに閏2月24日には、伯耆の豪族・名和長年(なわながとし)の手助けにより、後醍醐天皇が隠岐から脱出して、全国に倒幕の綸旨を発令します。さらに、播磨では赤松則村(のりむら・円心)が、肥後では菊池武時(たけとき)が、次々と立ち上がり、この千早城の攻防戦にも参戦していた新田義貞は、すでに3月頃にヤル気をなくして帰国の途についています。そして、とうとう、後醍醐天皇を倒すべく幕府から派遣された足利高氏(尊氏)までもが、後醍醐天皇側について六波羅探題を攻撃し、この前日には、その六波羅探題も消滅してしまいました。

○「千早城」(千早赤阪村大字千早)
「千早城」は、大和国と南河内国を結ぶ最短ルート交通の要衝であった千早街道から登りつめた、金剛山近くの中腹に築かれた連郭式山城です。楠木七城の一つ。上赤坂城を楠木氏の本城とすれば、千早城は詰の城にあたり、下赤坂城は出城となります。城は四方の殆どを深いに谷に囲まれ、城の背後が金剛山に続く要害の地です。鎌倉時代末期、北条氏の大軍を引き寄せ、守り通した千早城攻防戦の舞台となりました。楠木氏がその後も所有していましたが、室町時代になり北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城しました。この山城での、楠木正成の数々の戦術が語り草にもなっています。現在、本丸跡には千早神社が建ち、紅葉の名所となっています。
【千早赤阪村郷土資料館】
郷土資料館の側には、楠公誕生地、楠公産湯の井戸などがあり、楠木正成、千早城にまつわるものが展示されています。道の駅「ちはやあかさか」を目標に行けばすぐわかります。

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