古戦場めぐり「元弘の変・赤坂城の戦い(大阪府千早赤阪村)」
◎『元弘の変・赤坂城の戦い』
「赤坂城の戦い」は鎌倉時代後期の元弘元年(1331)9月11日、後醍醐天皇の倒幕運動(元弘の変)に呼応して起こった河内国の戦いで、河内国・赤坂城において、楠木正成が笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、凡そ500の寡兵をもって約20〜30万の幕府軍とわたり合った戦いです。しかし10月21日、鎌倉幕府軍に囲まれた赤坂城に籠っていた楠木正成が城に火を放ち、脱出しました。
文保2年(1318)、第96代の天皇として即位したのが後醍醐天皇です。天皇の理想は、摂関政治でもなく院政政治でもなく、ましてや武家政治でもない、天皇自らが行う政治でした。密かに、幕府を倒す計画を練る天皇でしたが、正中元年(1324)の正中の変が、事前に発覚して失敗に終わります。やがて、嘉暦元年(1326)3月、再び討幕しようと、息子・護良(もりよし・もりなが)親王たちに命じて各地の僧兵に声をかけ、側近の日野俊基(としもと)に、畿内の悪党(幕府傘下でない武士や土豪)たちを集めさせはじめるのです。しかし、これがまた幕府の知るところとなり、後醍醐天皇を流刑に、息子の護良親王を死刑にするための使者がやって来ると聞いた天皇は、元弘元年(1331年)8月27日に、三種の神器を持って奈良の笠置山に逃走します。この笠置山で、楠木正成という頼れる男を味方につけた後醍醐天皇でしたが、その間に、幕府側は、三種の神器のないまま、光厳天皇を即位させ、その新天皇の命を受けた官軍として、大仏貞直(おおらぎさだなお)・金沢貞冬率いる幕府軍が、9月27日、笠置山に総攻撃を仕掛けます。もちろん迎え撃つ後醍醐天皇、これが「元弘の変」の勃発です。しかし、笠置山はたちまちのうちに陥落して、29日には、山中を逃げまくっていた天皇も捕らえられてしまいました。
一方、後醍醐天皇の味方となった正成の籠っていた赤坂城にも、同時に、20万の幕府の軍勢が攻め寄せます。当時、赤坂城は、前にある護りの城・上赤坂城と、その後ろにある本城・下赤坂城の二つに分かれていましたが、上赤坂城は未だ完成しておらず、正成らは、500の手勢で本城の下赤坂城に籠って応戦します。
10月15日、総攻撃を開始した幕府軍。下赤坂城は、東西北の3方を川に囲まれた天然の要害でしたが、南側の堀は浅く、幕府軍はその南側に手勢を集中させ、一気に攻め入ろうと試みます。しかし、城内からは、何本もの矢が放たれ、容易に近づく事ができません。仕方なく幕府軍は撤退します。すると突然、後方の山影から楠木勢が現れ、猛攻撃を仕掛けたかと思うと、今度は城内から兵が飛び出して更なる攻撃がきます。全員で籠城していると見せかけておいて、実は、半分以上の兵を、先に外の搦(から)め手に潜伏させておいて、敵を引きつけてから挟み撃ちにする見事な作戦でした。
幕府軍の総攻撃は、翌日も続きます。今度は、その数にまかせて、群がるアリのごとく城の塀によじ登ろうします。しかし、塀の半分あたりのところまでやって来ると、突然その塀が、よじ登っている兵士とともに落下します。実は、それは、敵をおびき寄せるための囮(おとり)の塀で、本物の塀の外側に作られた張りぼてで、縄を切れば、下に落ちる仕掛けになっていたのです。
3日目、今度は慎重にと、一気に突入するようなことはせず、一かたまりとなって、ゆっくりと進みます。すると、哀れ塀の上からひしゃくでの熱湯あびせ攻撃に見舞われ、またまた撃沈です。この3日間の攻撃で疲れ果てた幕府軍は、ムリな攻撃をやめ、長期戦を視野に入れて、作戦を練り直すことにします。20万対500。おそらく、とてつもなく誇張した数ではありましょうが、幕府軍がかなり多かった事は確かです。正成の見事なゲリラ戦です。しかし、勝利に酔っているヒマはありません。赤坂城は、城といっても砦に近い小さなもので、このまま長期戦に持ち込まれては、耐えられるはずがありません。20万はオーバーにしても、敵は幕府軍。いつ援軍が派遣されるかわかりませんし、はなから完全勝利できる見込みは万に一つです。まして、肝心の後醍醐天皇が捕らえられてしまっては、赤坂城を守りきる意味も、それほどありません。
ここは一つ、別の機会に別の場所で決起すべきと考えた正成は、元弘元年(1331)10月21日、赤坂城に火をかけて、金剛山の奥へと脱出したのです。その後、炎に包まれた城を呆然と見る幕府軍。やがて、火の手が収まった城内に入ると、誰のものともわからない焼死体が、山のように積み重なっていました。またぞろ、何か企んでいるのではないか? としばらく囲みを解かず様子を見ていた幕府軍でしたが、それからいっこうに音沙汰もありません。11月に入ってからは、あの山のような死体を、長期戦には耐えられないとみた楠木一族郎党の自害と判断し、関東へと引き上げを開始しました。
翌年3月、後醍醐天皇は隠岐へ流され、俊基は死罪となり、もちろん、正成は死んだことになりました。彼らが、再び動きはじめるのは一年後。今度は、笠置山で逃げ切った護良親王のもと、正成らも千早城で再び挙兵することになります。
○「下赤坂城」(千早赤阪村森屋)
下赤坂城は、楠木正成による元弘の乱「赤坂城の戦い」の舞台となりました。金剛支脈の自然地形を利用して築城されたもので、千早赤阪中学校の裏手「赤坂城址」の碑の建っているところから、村役場方向、北にかけての丘陵一帯です。頂上部は四方の展望がきき、河内平野から金剛の千早城へ攻め入ろうとした場合には、第一の関門の役をはたしたのがこの下赤坂城でした。元弘元年(1331)、鎌倉幕府倒幕計画が発覚し後醍醐天皇が笠置山へ逃れた時、笠置がもし危なくなれば、ここに天皇を迎えようとして楠木正成が急いで築城したといわれています。しかし笠置が陥り、後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられ、笠置の城を陥れた鎌倉幕府勢は、勢いに乗じて下赤坂城へ攻め寄せました。この城はにわか造りの城のため落城、正成は金剛山中へと後退しました。その後、元弘2年(1332)に正成は再起し、鎌倉方の湯浅定佛を奇襲、下赤坂城を奪い返します。約1年後、この城は鎌倉勢のため再び落城しますが、千早城での籠城の間に鎌倉幕府は滅亡しました。城としての遺構は明確でなく、千早赤阪村役場の上付近が主郭(本丸)であったといわれています。また、千早赤阪中学校の裏手の説もあります。この辺りは、日本棚田百選の一つとのこと。石碑のあるところから見下ろすと、まるで段曲輪のような棚田の景色が美しい。
○「南公誕生地」(千早赤阪村水分山ノ井)
下赤坂城から1.2kmの所に、「歴史の丘公園」があり、そこに「楠公誕生地」があります。公園内には、道の駅「ちはやあかさか」、郷土資料館なども建っています。楠木正成は永仁2年(1294)、千早赤阪村の水分(すいぶん)で誕生したと伝えられています。両親に子供が出来なかったので、 信貴山の多聞天に願いをかけて授かったといいます。それで幼名を多聞丸とされました。道の駅から畑の中を200mほど行ったところに、楠木正成産湯の井戸があります。
文禄年間に、増田長盛が豊臣秀吉の命をうけ、土壇を築き、建武以後、楠木邸にあった百日紅を移植したという記録が残っています。また、元禄年間には領主石川総茂が保護を加え、その後、明治8年に大久保利通が楠公遺跡めぐりの際、ここに石碑を建立し顕彰しました。
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