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2016年08月04日06:05

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古戦場めぐり「湊川の戦い(兵庫県神戸市)」

古戦場めぐり「湊川の戦い(兵庫県神戸市)」

◎『湊川の戦い』
「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の建武3年(1336)5月25日に、摂津国湊川(現兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦です。
建武3年(1336)1月、足利尊氏は、楠木正成の奇策と、北畠顕家の援軍により、敗走して、西国に逃げ落ちました。後醍醐天皇は、公卿と共に、「今は何事かあるべきとて、悦び申されける」と喜び合いました。北畠顕家は、「鎮守府大将軍」という肩書を与えられて、陸奥に帰っていきました。安心する公卿が多い中、楠木正成は、「義貞を誅伐せられて、尊氏卿を召返されて、君臣和睦候へかし。御使に於ては、正成仕らむと申し上げたりければ、様々嘲弄どもありける」(南朝側の立場で書かれた『梅松論』)と、ビックリするような提案をしています。事態を理解できぬ公卿からは嘲笑され、この和平案は否決されました。
2月、後醍醐天皇は、足利尊氏との戦いに凱旋した新田義貞に、西征の勅命を出しました。しかし、新田義貞の出陣が遅れました。その理由は、新田義貞が寵姫の匂当の内侍との別れを惜しんだからだと、南朝側の『太平記』は書いています。当時の天皇や公卿には、世評とは違い、楠木正成より新田義貞を信任していたことが分かります。
3月、新田義貞は、播磨国鵤荘(揖保郡太子町)の楽々山(立岡山)で、赤松軍を撃破しました。新田義貞は、赤松円心が立て籠もる白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町)の抵抗に会い、身動きが取れない状態でした。3月下旬、赤松円心は、足利尊氏に上洛を促す手紙を書いています。
5月5日、足利尊氏は、備後の鞆津に上陸しました。軍議をひらき、水陸二方面作戦を採用しました。10日、足利尊氏を大将、高師直を副将にして、海路を進みました。他方、足利直義を大将、高師泰を副将にして、陸路を進みました。これを見て、新田義貞は、京都に援軍を要請しました。後醍醐天皇は、新田義貞からの使いにより、楠木正成に兵庫にいって、義貞と力を合わせて合戦せよと命じました。この時、正成は「足利尊氏の大軍とまともに合戦しては、必ず負けます。新田殿も京都にお呼びになり、主上も前の様に比叡山に臨幸していただきたい。尊氏を京都に引き入れ、兵糧攻めにすれば、朝敵を滅ぼすことができます」と、必死で訴えました。しかし、公卿の結論は、「戦う前に帝都を捨て、1年に2度も比叡山に臨幸することは、帝位を軽視するのに似ている。すぐに兵庫へ下るべし」というものでした。楠木正成は、「この上は何を言っても仕方がない」と無念の言葉を飲み込みました。
5月16日、楠木正成は、3000騎の内700騎を連れて、京都を出ました。桜井(奈良県桜井市)で、嫡子楠木正行を河内に返します。名場面「桜井の別れ」です。この時、正成は、死を覚悟していたことが分かります。18日、陸路の足利直義軍が迫ると、三石城(岡山県三石町)を占拠していた新田義貞の弟脇屋義助は、退いて、義貞軍に合流しました。義貞は、白旗城の囲みを解いて、兵庫に退きました。19日、足利尊氏は、再び室津に上陸し、見性寺で赤松円心に会って、今後の対応を話し合ったといいます。軍船の数は、5000艘だったといいますから、室津は軍船で埋め尽くされたのでしょう。23日、足利尊氏は、室津で「よき順風」を待って、船出しました。24日、新田義貞軍は兵庫で、楠木正成軍と合流しました。足利尊氏の軍船は、播磨の大蔵谷(兵庫県明石市)の沖合いに停泊しました。尊氏は、既に到着していた足利直義と軍議を行い、25日に攻撃を開始すると決定しました。
25日、軍が動きました。楠木正成軍は、会下山一帯の丘陵から夢野台に至る地域に陣を布きました。新田義貞の弟脇屋義助の軍は経ケ島、大館氏明軍は燈籠堂の南の浜、義貞軍は和田岬に陣を布きました。午前10時、足利尊氏の弟足利直義軍は、須磨寺のある上野山から会下山に通ずる道を進撃して、楠木正成軍と正面から対峙しました。斯波高経軍は、鹿松峠から大日峠を越え、夢野台に出て、正成軍の右側面に迫りました。少弐頼尚の浜手軍は、海岸部を進撃して、駒ケ林の北端から新田義貞軍の側面に迫りました。細川定禅の水軍は、神戸の浜から上陸し、新田義貞軍の後方をかく乱する戦術をとりました。義貞軍は、退路を断たれることを恐れて、和田岬の陣を引き上げ、京都へ逃げ帰ってしまいました。午後5時、楠木正成軍は、16度の戦いで73騎になってしまいました。正成は、弟楠木正李に何か願い事はあるかと聞くと、正李は「七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさやとこそ存候」と答え、「兄弟共に差違え、同枕に臥にけり」(『太平記』)。楠木正成の首は、京都の六条河原にさらされましたが、足利尊氏は、白木の箱に入れ、丁重に河内の遺族の元に送り返したといいます。 

○「港川神社(南公さん)」(神戸市中央区多聞通3-1)
楠木正成(大楠公)は、永仁2年(1294)、河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)で生まれました。この地の豪族の出身だと伝えられています。後醍醐天皇が配流になった後もそれに臆せず、なお戦い続けた武将がいました。それが正成でした。延元元年(1336)、足利軍が京都を占領しますが、わずか半月ほどで正成等の朝廷軍に破れ、尊氏等は九州に落ち延びました。同年5月23日、正成は、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(大阪府三島郡島本町桜井)で、御子正行(小楠公)に後事を託して別れ、同年5月25日、正成は手兵700で会下山に陣の間を置きました。この日、正成は足利尊氏の弟・直義等の軍も合わせた大軍と16度にわたる激しい合戦をし、大軍の前にはさすがの楠木軍も善戦虚しく、味方はわずか73人にまでになってしまいます。もはやこれまでと覚悟された正成は、弟の正季卿ら御一族と「七生滅賊」を誓って殉節し、その偉大な生涯を閉じました。
【楠木正成戦没地】
延元元年(1336)5月25日、正成が御弟正季卿以下御一族と「七生滅賊」を誓われつつ殉節された場所と伝えられ、境内西北隅に位置します。
【楠木正成墓碑】
後の元禄5年(1692)、権中納言徳川光圀(水戸黄門)は、家臣佐々介三郎宗淳を、この地に遣わして碑石を建て、光圀みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を、岡村元春に書かせて、これに刻ませました。この墓碑の建立によって、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となりました。即ち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのです。

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