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2016年08月03日06:05

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古戦場めぐり「源平合戦・一ノ谷の戦い(兵庫県神戸市)」

古戦場めぐり「源平合戦・一ノ谷の戦い(兵庫県神戸市)」

◎『源平合戦・一ノ谷の戦い』
「一ノ谷の戦い」は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年(1184)2月7日に摂津国福原および須磨で、源義経・範頼の源氏軍が平家軍の集結する一ノ谷を襲った戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。有名な義経の奇襲「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の場所は、実際には鉢伏山だったのではないかと議論されています。
寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に入り、戦いに敗れた平家は西海に逃れて屋島に拠を移していました。しかし、全てに荒っぽい義仲を後白河法王は嫌い、義仲が法王の命を受けて西海に平家と戦いに行った隙に、義仲打倒の命を源頼朝に出してしまいます。いったんは京都に戻って後白河法王を幽閉し、征夷大将軍に就任する義仲ですが、源範頼・義経の連合軍に破れ、義仲は戦死、巴御前は北陸へと落ちていきます(1184.1.20 宇治川の合戦)。
源氏の内輪もめを好機とみた平家は京都を奪回すべく、現在の神戸の生田神社のかいわい、一ノ谷に陣を整えます。平家が安徳天皇を擁していることに苦慮した後白河法王は和平の道を探り、2月8日までは攻撃しないから話し合おうと平家に伝えたのですが、範頼・義経の軍はそれを無視して、寿永3年(1184)2月7日の朝の内に戦争を始めてしまいました。最初範頼の軍が東から、義経の軍が西から攻めて挟み撃ちにする予定だったのですが、熊谷直実たちが無茶な先陣争いから戦闘の発端を開いてしまい、まだ義経たちが六甲の山の中を進軍している内に、眼下では死闘が繰り広げられる結果になります。
ここで義経は、その崖を駆け下りて戦闘に参加することを思い立ちます。そこで道案内をしていた地元の猟師に「この崖を降りられないか?」と尋ねますと、猟師はびっくりして「無理ですよ。時々鹿が駆け下りているのは見ますけど人馬には不可能です」と答えます。すると義経は、「鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿に降りれて、馬に降りれない筈がない」といい、手近な馬を10頭ほど崖から突き落としてみました。すると中には途中で転んで足を折ってしまった馬もありましたが、きちんと下までたどりつけた馬もいました。ここで義経は、「よし。行ける。ここから行くぞ」と号令し、義経は30騎ほどの先頭に立って崖を降りて行きます。すると殿に続けと、その他の者も大勢続いて降りていきました。途中からは佐原義連が崖を降りる先頭を務めました。後白河法王の停戦命令を律儀に信じた平氏方は、安心して武装を解除していました。ここに源氏の大群が襲い掛ってきたのです。平氏方の死者は1000余人。重衡(しげひら)は捕虜となり、忠度(ただねり)以下、経正(つねまさ)、経俊(つねとし)、敦盛(あつもり)など、多くの一門が討たれました。生き残ったのは、沖合の船上にいた総大将宗盛(むねもり)のみでした。これに憤慨した宗盛は、合戦後、法皇に抗議の手紙を送っていますが後の祭りでした。こうして思いも掛けない方角から敵軍が来たのに驚いた平氏は、混乱して総崩れになり、昼頃には一ノ谷の合戦は決着が付いてしまいました。
この奇襲を、義経の戦上手を伝える「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」といいます。この合戦がターニングポイントとなり、以後平家は、急速に滅亡の道を辿ります。

○「史跡鵯越の碑(鵯越墓苑南門)」(神戸市北区山田町下谷)
鵯越とは、攝津の国(福原や兵庫方面)から藍那を経て播磨の国、三木方面へ出る古道の呼び名です。墓園内には源義経伝承を残す場所が3箇所あり、鵯越墓苑南門付近の市道夢野白川線(旧西神戸有料道路)の植え込みに、「史跡鵯越の碑」(昭和29年設置)が建っています。源平合戦のときに、このあたりから義経が一の谷へ攻め入ったと伝えられています。
【義経馬つなぎの松跡】
墓園内の高尾地蔵院境内には、義経が鵯越進軍の途中ここで休憩し、境内の松に馬をつないだといわれる「義経 馬つなぎの松跡」があります。今は枯れてしまって根の部分しか残っていませんが、「義経馬つなぎ之松」の案内板が建っています。
【蛙岩】
さらに、風化した岩が複雑な形となって、数匹の大蛙と多くの小蛙のように見える奇勝「蛙岩(かえるいわ)」があり、義経が平家を攻めた「鵯越から西進し坂落し」の場所が、須磨の一の谷でなく、この蛙岩という説もあります。
【鵯越の場所はどこか?】
名高い義経の逆落としですが、一般的には「鵯越」から行われたといわれています。『平家物語』では義経らが駆け下った場所を鵯越とし描いており、『吾妻鏡』でも義経が戦った場所は鵯越と記されているからです。しかし、鵯越(神戸市兵庫区鵯越町)は一ノ谷(神戸市須磨区一の谷町)の東方8キロにあり、『吾妻鏡』『玉葉』『平家物語』の義経が一ノ谷の陣を攻略したという記述と矛盾します。このため、一ノ谷という攻略地点を重視して、桑田忠親國學院大學教授などは戦況や史料の断片的な記録から判断して、逆落としは一ノ谷の裏手鉄拐山の東南の急峻な崖から行われたと述べています。一ノ谷から遥かに離れた鵯越より、一ノ谷背後の鉄拐山の崖である方が戦況の説明が合理的になるため、近年の合戦を扱った関係書籍や観光史跡案内などでも、主にこの一ノ谷説が採られています。鉢伏山は、鉄拐山の約1Km西側になります。

○「ひよどり展望公園」(神戸市兵庫区鵯越筋)
「ひよどり展望公園」は、市道夢野白川線(旧西神戸有料道路)の鵯トンネル入り口の上にあります。山頂に展望台があり瀬戸内海を望むことができ、ハイキングコースになっています。源義経の「鵯越の逆(坂)落とし」で有名。三草山合戦を制した義経が、軍を二手に分け、平家の本陣の裏にあたる鵯越の急斜面を駆け下りて、予想を裏切る奇襲攻撃を仕掛け、勝利に導いたとされます。
【ひよどりごえ森林公園】(神戸市北区・長田区)
「ひよどりごえ森林公園」は、神戸市北区と同市長田区にかかる丘陵の生活環境保全林です。面積は53ha。市道夢野白川線(旧西神戸有料道路)を挟んで、北は山歩きコースの「ひよどりエリア」、南は瀬戸内海を望むことができる散策コースの「丸山エリア」となっていて、森林浴等に利用されています。ひよどり展望公園とともに、源平合戦(一ノ谷の戦い)のゆかりが深いところです。

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