古戦場めぐり「上月城の戦い(兵庫県佐用町)」
◎『上月城の戦い』
「上月(こうづき)城の戦い」は、天正6年(1578)4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城で、毛利輝元と羽柴秀吉の支援を受けた尼子勝久との間で行われた合戦です。秀吉が救援できず、城を囲んだ毛利方の勝利となりました。
天正5年(1577)10月、羽柴秀吉は織田信長の命を受けて播磨国に出陣し、姫路城に入いりました。そして備前国・美作国・播磨国の境に位置する要衝・上月城を攻めます。このときの上月城は、毛利氏に属していた宇喜多直家の勢力範囲にあり、宇喜多勢に横槍を入れられながらも羽柴勢は上月城を陥落させました。城を守っていた赤松政範は12月3日に自刃し、ここに赤松氏は滅びました。
この落城に際して、城兵が政範の首を持参して降参を請いましたが、秀吉はこれを許さず、城内外の残党をことごとく捕えると男はその場で斬殺、非戦闘員である婦女子までもを見せしめとして備前・美作の国境まで数珠繋ぎに連行され、女子は磔刑、子供も串刺しにするという残忍極まりない処置を取らせました。また、上月城と同様に最後まで頑強に抵抗を続けた福原城でも、攻略後に250人以上を斬首したといいます。
12月上旬、秀吉は麾下の兵を従えて根拠地としていた姫路へと引きあげました。そして上月城の城番として入ったのが、尼子の旧臣・山中幸盛です。年が明けた天正6年(1578)、幸盛はこれを尼子氏再興の好機と考え、秀吉の許可を受けたうえで、京都から尼子勝久を上月城主として呼び寄せました。そのとき勝久の弟の通久や老臣も呼応して馳せ参じ、尼子残党の結集に気勢が上がりました。
しかし、秀吉の軍勢が上月城から去ったあとに宇喜多直家の攻撃を受け、2月上旬に至ると幸盛は城を守りきれずに姫路へと退去してしまいました。上月城は毛利攻めにおいて重要な拠点となる城であり、手中に収めておく必要があった秀吉は、大軍で囲んで再びこの城を陥落させて奪い取りました。これが3月のことですから、半年足らずの間にこの上月城をめぐって3度もの争奪戦があったことになります。
秀吉は、上月城に再び尼子勝久主従を入れることにしました。尼子氏が持っている打倒毛利・尼子再興の願望を、毛利討伐の材料に利用しようとしたのです。そして秀吉自身は、別所長治の拠る三木城の本格的な攻略に取り掛かかりました。尼子勝久の上月入城を知った毛利輝元は、ただちに吉川元春・小早川隆景に命じ、3万の大軍をつけて手薄となった上月城の攻略に向かわせました。天正6年(1578)4月18日のことです。
そのとき秀吉はすでに三木城攻略の最中でしたが、これを一時中断して上月城の救援へと向かいました。秀吉は5月4日に上月城東方の高倉山に陣を布いて毛利勢を牽制しましたが、1万の軍勢でしかなかった秀吉は、3万の毛利勢に囲まれた上月城に近づくことすらできない状態でした。窮した秀吉は亀井茲矩に命じ、勝久に上月城からの脱出を勧めさせましたが、勝久はそれに応じませんでした。さらに、6月16日に秀吉が上洛して信長に援軍を要請したところ、信長は上月城の救援をやめ、ただちに三木城攻めに集中するように厳命を下したのです。こうして、上月城は織田家、秀吉軍から見捨てられてしまいました。
秀吉軍が高倉山の陣を撤去して、三木城攻めに戻ったのが6月26日であり、万策尽き果てた上月城では、7月3日に勝久が自刃し、5日に落城しました。ここに毛利氏と対抗し続けた尼子氏は滅亡し、毛利氏の力がさらに強大になりました。なお、勝久と共に上月城にあった山中幸盛は、毛利方に捕らえられました。そして捕虜として毛利の本営に送られる途中、備中国の甲部川(高梁川)と成羽川の合流点である阿井の渡しというところで殺されました。
○「上月城跡」(佐用町上月)
上月城は、鎌倉時代末期の延元元年(1336)、赤松氏の一族・宇野播磨守太田入道山田則景の息上月景盛(こうづきかげもり)によって、太平山(樫山)に初めて築かれました。上月氏は赤松氏の庶流で四代続きましたが、嘉吉の乱によって滅亡しました。天正5年(1577)羽柴秀吉によって上月城は落城し、政範は自刃して果てました。尼子勝久を担いで尼子家再興を願う山中鹿之介は織田信長に与し、この上月城を守りましたが、天正6年(1578)毛利の大軍によって落城し、尼子勝久は自刃、山中鹿之介は捕らえられて毛利の本陣へ護送される途中に討たれました。
【上月歴史資料館】
上月城の北麓に上月歴史資料館があり、資料館の中には付近の城の縄張図入りの説明板が多数展示されています。この資料館の前から遊歩道があります。
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