古戦場めぐり「源平合戦・屋島の戦い(香川県高松市)」
◎『源平合戦・屋島の戦い』
「屋島(やしま)の戦い」は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年(1185) 2月19日、讃岐国屋島(現高松市)で行われた、源義経が四国に逃れ勢力を挽回しようとしていた平家を急襲し破った戦いです。治承・寿永の乱の戦いの一つです。
一ノ谷で敗れた平家は、四国の屋島に逃げました。『平家物語』によると、元暦2年(1185) 2月、摂津国渡辺(現在の大阪城のあたり)に招集した軍船に「櫓」をつけるか否かで、源義経と梶原景時の間で論争になりました。景時は「船尾、舳先に櫓を付け、さらに脇舵も付けて、どちらにも回しやすい様にすべき」と主張しましたが、義経は「初めから逃げ支度など、縁起でもない」と反対します。二人は仲が良いとはいえない関係です。この論争の後、義経は郎党はじめごく一部の武士を率い、200余艘の軍船のうち5艘だけを使って、2月17日の夜、暴風雨の中を漕ぎ出してしまいます。
2月18日の朝、義経一行は暴風雨を乗り越え、阿波国勝浦に上陸しました。早速、現地の源氏方勢力を集めると、平氏に味方する桜間介能遠(さくらばのすけよしとお)の城を攻め落としてしまいます。義経の軍事行動は常に速く、休息もそこそこに屋島に向かって軍勢を進め、通常なら2日の道のりをわずか一晩で進み、2月19日、状況の変化が平氏本陣に伝わらないうちに、屋島の背後まで進出しました。
源氏は水軍で海から攻めてくると考え、平氏の屋島の守りは、海側に集中していたそうです。義経はまず周囲の民家に火を放ち、さも大軍が押し寄せたかのように演出して攻撃を始めました。この攻撃で平氏はまたしても慌てふためき、船に乗って海に逃げ出し始めます。しかし落ち着いてよく見てみると、攻めて来た源氏軍はごくわずかなもので、平氏の中でも勇猛な武者たちが反撃にうつりました。
始まった弓矢の射撃戦で活躍した武将は、平家一門中で一番の猛将と評判を受けている平教経(たいらののりつね、26歳)でした。源氏軍大将の源義経を狙い、教経は強弓を用いて次から次へと源氏武者を射抜きました。主君である義経の危機を感じた佐藤嗣信(さとうつぐのぶ)は、義経をかばって教経の矢に射抜かれてしまいます。奥州出陣以来の郎党である佐藤嗣信の矢傷は致命傷でした。『平家物語』には、嗣信の遺言としてこのように記されています。「主君の命に代わって討たれたと、末代までも語り伝えられることは、弓矢をとる身として今生の名目。冥土の思い出です」。この言葉は、まさに郎党の鑑といえます。嗣信の遺言は、武士の献身道徳の例として、後の世でもしばしば取り上げられました。
陸を占拠したものの、船がないためにそれ以上攻め込めない源氏軍。なかなか屋島奪回に動こうとしない平氏軍。両軍の戦いは膠着状態となります。そんな中、平氏の軍船の中から一隻、舳先に扇を掲げた船が前に出てきました。これは、「この扇を射抜ける人はいるかな?」という戦中の座興でした。さて、弓の腕を問われた源氏軍。これに応えられなければ、平氏から笑い者にされてしまいます。弓に優れた武士が多い中で、下野国の武士・那須与一宗高(なすのよいちむねたか)が射手として選ばれました。与一は馬を海中に進め、足場の良い岩で馬を止めます。そして、波で船と共に揺れる扇に狙いを定め、見事に扇を撃ち抜きました。見事な与一の腕前に、源氏平氏の両軍からは歓声が上がりました。
さらに平氏軍から、3人の武者が渚に降り立ち、大きな盾を浜について源氏を挑発します。この中の一人が、平氏を代表する猛者の一人・平景清(たいらのかげきよ、悪七兵衛景清)でした。さて、景清ら3名の平氏武者を討ち取ろうと、源氏軍から5名の武者が飛び出しました。先頭におどり出た三保谷十郎(みおのやじゅうろう)は、馬が矢を受けて倒れてしまいます。逃げようとする十郎と捕まえようとする景清。この力比べは、十郎の兜の錣(しころ)がブチっと引きちぎれ、十郎が逃げ出したことで幕を閉じました。景清は引きちぎった錣をブンブン振って、「我こそは悪七兵衛景清」と名乗りを上げ、自分の武勇を誇り、源氏軍を挑発します。再び激しい戦闘が繰り広げられ、この時は既に夕暮れだったそうです。
源氏武者は馬で海に突入し、平氏武者は船上から熊手や長刀で防戦。夕暮れの戦いは一進一退であったそうです。この最中、義経の弓が熊手に引っ掛けられ、海に落ちてしまいました。義経は、鞭で弓を手繰り寄せようとします。家来が「そのような弓の1、2本、お捨てください!」と止めますが、義経は聞く様子もなく、うまく弓を回収すると笑いながら陣に引き返したそうです。戦術的には目を見張るほどの戦果を上げた義経ですが、実は身のこなしが素早い分、小柄で非力であり、弱い弓しか引けなかったそうです。なので、義経にとって弱い弓を引いているということは、他人には知られたくなかったといいます。この日は、日暮れとともに戦いは終わりました。
さて翌日、平氏軍は屋島奪還のために、東の志度浦(しどのうら)に上陸しようと試みますが、源氏軍に阻まれてしまい、屋島を捨てて西に向かいます。しかし、義経の軍には新たなる危機が迫っていました。阿波民部重能の嫡男・田内左衛門教能(でんないざえもんのりよし)が、伊予から3000騎を率いて屋島に帰ってくる、という報が入ったのです。屋島を占領したとはいえ、この数は脅威的です。この危機に対応したのは、義経の知恵袋・伊勢義盛でした。義盛は白装束、丸腰の16騎を率いて教能の軍を待ち受けます。そして義盛は教能に面会すると、「屋島は陥落」「安徳天皇は入水」「父の重能は捕虜となった」と、虚報を流したのです。教能は義盛の言葉を信じ、源氏に降伏してしまいます。この結果、教能は捕虜となり、教能が率いていた3000騎の軍も説得されて、源氏についてしまいました。
2月21日、梶原景時が200余艘の水軍を率いて屋島に到着したときは、平氏軍は屋島奪還を諦めて、西に落ち延びていました。この頃は、源範頼によって太宰府も奪われていたため、平氏が落ち延びる場所は、平知盛が守る長門の彦島しか残っていませんでした。屋島の陥落により、源氏と平氏との戦いの趨勢は大きく源氏に傾きます。日和見を決め込んでいた各地の武士のほとんどは源氏に味方し、また熊野水軍をはじめとした瀬戸内の水軍衆の多くも源氏に味方することを決めました。平氏の運命は、風前の灯となったわけです。
○「屋島」(高松市)
屋島は、高松市街から東に進んだところにあります。遠くからみると、島にそびえ立つ山が平らな屋根みたいになっていることから、「屋島」という名前がついたそうです。現在は浅瀬が埋めたてられたために半島になっていますが、源平合戦の頃は島になっていたそうです。元暦2年(1185)、源義経率いる源氏軍の攻撃を受け、激しい攻防戦を繰り広げた後に、平氏は敗れ屋島は陥落しました。屋島を失ったことで、源平合戦の趨勢は大きく源氏に傾き、屋島陥落後間もなく、壇ノ浦の戦いで平氏は滅ぶのでした。屋島は、平氏の滅亡を決定付けた重要拠点だったといえます。
【獅子の霊厳】
談古嶺、遊鶴亭と並ぶ屋島三大展望台の一つ。戦に勝った源氏が陣笠を投げて勝鬨をあげた伝説にちなみ、小さい皿状の土器を展望台から投げる「かわらけ投げ」が楽しめます。展望台の下に、海に向かって吠えているような獅子そっくりの岩があることから、その名が付けられました。
【屋島寺】
屋島寺は、四国八十八ヶ所85番目の札所です。境内には、源平の戦死者を供養した供養塔や源氏軍が血のついた刀を洗った血の池(瑠璃池)などもあります。
【菊王丸の墓】
屋島東麓に向かうと、小学校の隣の小さな区画に「菊王丸の墓」があります。菊王丸は、平家一門で勇猛第一と讃えられた平教経の家来です。主の教経が射倒した佐藤継信の首を刎ねようとしたところ、継信の兄の佐藤忠信の矢を受け、この傷がもとで亡くなったそうです。菊王丸の死を悼んだ教経は、ここに手厚く葬ったそうです。また、屋島東麓には安徳天皇の内裏が置かれていたそうです。本殿の後ろには、一基の塚といくつかの石が集められた塚があります。屋島の戦いで戦死した将兵の墓は散在していたのですが、里の人がここに集めて葬ったそうです。
【安徳天皇社】
一ノ谷の戦いで敗れて屋島に逃げ込んだ平家の総大将・平宗盛が建立した、幼帝・安徳天皇の行宮跡。安徳天皇は、わずか6歳で崩御。その後、同場所は、安徳天皇を祀る霊所になりました。境内の奥には、屋島の合戦で散った平家方の武士も供養されています。
【佐藤継信の碑】
屋島檀ノ浦における平氏との戦いで、源義経の矢面に立ち、身代わりとなって忠死した佐藤継信。武士道の鏡である継信を広く世人に知らせようと、初代高松藩主の松平頼重が1643年に建立しました。
○「駒立岩と祈り岩」(庵治町)
庵治町には、那須与一が扇の的を射抜いた時に、馬を立てたといわれている「駒立岩」があります。満潮時、岩は没してしまっていますが、干潮時は岩が姿を現すそうです。現在、ここは海ではなくて小さな川になっています。また、駒立岩の南方に「祈り岩」があります。民家のすぐそば、道路に面して置いてあります。与一は矢を放つ前にこの岩に馬を立てて、「南無八幡大菩薩、わけても私の生れた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と、神々に矢が命中するように祈ったと伝えられています。那須与一は、ここから駒立岩へと向かいました。
【船隠し】
屋島の対岸に位置する五剣山の西の麓にある入り江。合戦の際、平家は源氏が必ず海から攻めてくると予想し、こちらの場所に軍船を隠していたそうです。1183年から1年半、平家の本陣があったと伝えられています。
【景清錣引伝説地】
平家で一番、豪傑といわれている悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が一騎打ちした場所。逃げる十郎の兜を景清が熊手で引っかけ、兜の錣を引きちぎったそうです。景清の腕力と十郎の首の強さを物語るエピソードになっています。
【洲崎寺】
大同年間(806〜810年)に空海が創建したと伝えられる古刹。源平合戦の際は、義経軍が負傷した兵を運んだとされています。戦死した佐藤継信も本堂の扉に乗せられ、運ばれたそうです。
【義経弓流し場所】
洲崎寺の南。合戦当時、遠浅の海岸だった同場所で、両軍が入り交じり激戦を繰り広げているとき、源義経が脇にはさんでいた弓を落としてしまった場所。義経は「源氏の大将は、こんな弱い弓を使っているのか」と平家に笑われないために、危険を承知で必死に落とした弓を拾ったそうです。
【総門跡】
平家が安徳天皇を奉じて六万寺を行在所としていた頃、海辺の防衛に備えて守り門を築きました。現在に残る衡門は、合戦の遺構を後世に伝えようと初代の高松藩主・松平頼重が再建したものです。
【射落畠】
「射落畠」(いおちばた)は、源氏軍の四天王に数えられる佐藤継信が、大将の義経をかばって殉職した激戦地。継信の子孫が昭和6年に建てた石碑が残り、「胸板をすえて忠義の的に立ち」の文字が刻まれています。
【佐藤継信の墓】
源義経の身代わりとなって倒れた佐藤継信の墓。1643年に初代高松藩主である松平頼重が新しく墓石を築き、継信の忠死を称えました。1931年には、継信の子孫が墓地の大改修を実施。現在の墓地公園に整備しました。
【大夫黒の墓】
大夫黒(たいふくろ)とは、義経が後白河法皇から賜った名馬。一ノ谷の合戦の「鵯越えの逆落とし」で乗馬しました。佐藤継信の供養の礼に志度寺の覚阿上人に贈り、死後は継信のそばに埋葬されたと伝わります。
【菜切り地蔵】
合戦時、炊事をする際にまな板がなかったため、弁慶がこちらの地蔵の背中をまな板代わりにして野菜の汁を作ったそう。今なお、その時の刀痕が残っていると言われています。
【義経鞍掛松】
1185年、平家を追った義経が徳島の勝浦から大坂峠を越えて高松に入り、屋島を目前にこちらの場所で一休みしたそうです。義経は、聳える松に鞍を掛けて休息したとのこと。現在も何代目かの幼松が植わります。
【相引川】
屋島の南側を東西に流れる河川。源平両軍が激闘を繰り広げて引き分けた場所にちなみ、命名されたそうです。また、河川としては珍しく両端に河口が存在。そのため、両方向に潮が引くことから名付けられたという説もあります。
【瓜生が丘】
屋島にいる平氏を攻めるために、源氏が本陣を置いた場所。付近一帯を瓜生が丘と呼び、「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑も建ちます。
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