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2016年07月28日06:08

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古戦場めぐり「四万十川の戦い(高知県四万十市)」

古戦場めぐり「四万十川の戦い(高知県四万十市)」

◎『四万十川の戦い』
「四万十川(しまんとがわ)の戦い」は、天正3年(1575)7月に勃発した長宗我部氏と土佐一条氏の戦いです。この合戦によって、長宗我部元親の土佐(高知県)の統一が決定的となりました。別名、渡川の戦いとも呼ばれます。
土佐西部にある幡多(はた)郡は、鎌倉時代の昔から関白家・一条氏所有の荘園でした。応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱。京都の町を焼き尽くして繰り広げられた市街戦に嫌気がさした一条教房(のりふさ)は、早々に京都を脱出し、知行地であるこの幡多荘へと移り住みました。やがて、その一条氏は幡多郡の中村城(高知県四万十市)を居城とする戦国大名となるのですが、その間も、もともと出自が雅なお方の一条氏ですから、何をどうすると言った事をしなくても、この地の人々からは、「お公家大名」と呼ばれ、尊敬され続けていました。
ところが、教房から数えて5代目の一条兼定(かねさだ)の頃になると、この一条氏も戦国の波に呑みこまれることとなります。この頃には、その本拠地を岡豊(おこう)城に移していた兼定でしたが、度重なる失政に家臣からの信頼を失い、その地位が揺らいで来た中、登場してきたのは、宿命のライバルである本山を倒し、安芸城を攻略して、土佐中央部を支配化に治めた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)でした。
そんなこんなの天正2年(1574)、とうとう兼定は不満爆発の家老たちから隠居を迫られ、豊後(大分県)に追放されてしまうという事態になり、妻の実家である九州豊後国の大友宗麟を頼りました。この時を逃してはならずとばかりに元親は、後を継いで当主となったばかりの兼定の長男・内政(ただまさ)と、自分の娘を結婚させます。さらに、何だかんだとウマイ事いって、その内政を岡豊城外に住まわせて実権を奪い、もう一つの中村城には、弟の吉良親貞(きらちかさだ)を送り込み、完全に一条氏を乗っ取ってしまったのです。
そうなると、兼定も黙ってはいられません。翌天正2年(1574)7月、嫁の実家の大友宗麟や伊予(愛媛県)の武将たちの支援を受け、「打倒!長宗我部」を掲げて挙兵し、旧領を挽回するために伊予国宇和島に上陸し、土佐国へ攻め込みました。四万十川(渡川)の西側に陣を敷き、防護施設の構築をしはじめます。一条家の元家臣たちも兼定に従い始めたことから、軍勢は3500に増え、元の居城である中村城の城下を焼き、四万十川の河口西岸にある栗本城を攻め落とすとこれを拠点とし、中村の長宗我部勢と対峙しました。
この異変を知った元親は、即座に兵を集め対応します。3日で集まった兵の数は7300。これぞ、土佐の一領具足(いちりょうぐそく)です。一領具足とは、甲冑一式という意味で、普段は農業に勤しんでいる農民ですが、いざという時は、その甲冑一式だけを持って即座に参戦する土着の武士団のことで、こういう風に一声かければ、瞬時にして兵団となる強味があります。
長宗我部元親は、弟の吉良親貞を大将とする軍勢7300を、わずか3日後に中村に派遣しました。四万十川を挟んでにらみ合う両軍。やがて長宗我部軍が川を渡りはじめ、四万十川の戦いが開始されます。川を渡らせてなるものかと、一斉に進軍する兵に向かって弓矢を射掛ける一条軍。短期間の内に現れた大軍に仰天した一条勢でしたが、四万十川を挟んでの対峙から、川を渡っての戦いとなります。この一条軍の攻撃を確認し、長宗我部勢は隊を2隊に分け、福留隼人率いる別働隊が上流へ回り込もうと移動し始めました。しかし、これは元親の陽動作戦で、少ない兵をさらに分散させて余裕の長宗我部軍は、やすやすと四万十川を渡りきりました。兼定は、あらかじめ川中に乱杭を仕掛けており、敵が渡河する際に、足をとられ身動きできなくなるところを攻めようと考えていましたが、杭の無い上流から回りこまれてはかなわないと、自軍も二手に分け、一隊を上流の敵に備えさせることにしました。ここですかさず、手薄になった一条勢の本隊に対し、長宗我部勢は一斉に渡河を開始、数にものをいわせ徹底的に一条勢を攻め果たしました。動揺した一条軍は総崩れとなり、200余名の死者を出し、散り散りに敗走してしまいました。
さらに、この勢いに乗った元親は、7月16日、栗本城(甲浦城、かんのうら)攻撃にかかりました。栗本城は容易に落ちませんでしたが、攻城3日目についに陥落しました。兼定は、命こそ助かりますが敗走していきましたが、再起の夢は潰えました。戦国大名としての一条氏は、ここに滅亡することとなりました。元親は、吉奈城に細川定輔、宿毛には野田甚左衛門を配して、北辺の守備を命じて岡豊に凱旋しました。さきに本山氏、さらに安芸氏を滅ぼした元親は、ここに一条氏をも滅ぼし、名実共に幡多郡をも領有することになり、土佐一国の平定をほぼ成し遂げたのです。

○「渡川合戦地跡」(四万十市具同)
渡川(四万十川)合戦地跡に、石碑と説明板があります。渡川とは、四万十川の中村付近での俗称です。
【栗本城】
栗本城の築城年代は定かではありません。城主としては津島勘助、鳥屋源兵衛などが伝わりますが、これらの人物は不明です。栗本城は、春日神社の北側にある山に築かれていて、渡川を挟んで中村城と対峙する位置にあります。天正3年(1575)一条兼定は中村城奪還のために、伊予の法華津播磨守らの助勢を得て、栗本城に要害を構えて拠点としました。兼定と元親の軍勢は渡川(四万十川)を挟んで戦いましたが、兼定の軍勢は敗れ、伊予に退き奪還は果たせませんでした。現在山頂部分には水道施設がたち、大半の遺構は消滅してしまったようです。東側の赤松町から車道が山上に付いており、終点に栗本城の案内板が建っています。

○「中村城」(四万十市中村丸の内)
応仁の乱を避けた一条教房が、荘園(幡多荘)であった中村に下向しそのまま戦国大名として土着し、元々この地にいた豪族の為松氏が家老として取り立てられ、中村城はその為松氏により築城されたのが始まりと考えられています。中村城は、四万十市役所の北西にある標高70m程の山に築かれており、現在は「為松公園」として整備されており、二の丸跡に模擬天守(四万十市立郷土資料館)が建てられています。館内には、土佐一条家にまつわるものや、日本では四天王寺や法隆寺など4本しかない七星剣などが展示されています。

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