古戦場めぐり「鳥取城の戦い・鳥取の渇殺し(鳥取県鳥取市)」
◎『鳥取城の戦い・鳥取の渇殺し』
「鳥取城」は、鳥取県鳥取市(旧因幡国邑美郡)にある山城跡です。久松山城ともいわれ、中世城郭として成立し、戦国時代には織田信長の家臣であった羽柴秀吉と毛利軍の毛利経家との戦いの舞台となります。秀吉が兵糧攻めにして、経家の自決と引き換えに開城させました(鳥取城の兵糧攻め、鳥取の渇殺し)。
織田信長から中国経略の大任を命じられた羽柴秀吉は、播磨方面の平定を終えると、今度は但馬・因幡国方面へと攻撃の重点を移していきました。天正6年(1578)4月から但馬の攻略にかかり、同8年(1580)5月には因幡に出陣して、鳥取城を攻撃し降伏させています。その頃の鳥取城主は因幡守護の山名豊国で、彼は毛利方に属していましたが、9月21日秀吉の甘言を鵜呑みにして城を出てしまいました。城中に残った豊国の家老・中村春続と森下通与の2人は秀吉に屈服することを嫌い、毛利方の山陰方面の中心人物となっていた吉川元春に急使を送ってこの旨を知らせました。元春ははじめ豊国にかわる城将として牛尾元貞を送り、のち市川雅楽允・朝枝春元にかわらせました。ところが中村・森下の両名はこれでは満足せず、もっと指導力のある武将の入城を求めたのです。そこで抜擢されたのが、石見国福光城主・吉川経安の嫡子である吉川経家(きっかわつねいえ)でした。
経家は、翌天正9年(1581)3月18日鳥取城に入りました。この入城後、すぐに千代川のそばに丸山城を築かせることで陣容の建て直し、城外からの糧道確保の策をとりました。しかし、城内の食糧事情は予想以上に逼迫していました。
これは前年の秋、秀吉の手の者が因幡国の米を、収穫と同時に時価の数倍(2倍程度か)の値段で買い占めてしまったためといわれます。鳥取城が要害堅固な城であるため容易に落とせないであろうことを憂慮した秀吉は、兵糧攻めにすることを考えましたが、この買占めはその下準備だったようです。と同時に、因幡国の郷村の農民たちにひどい仕打ちをして、農民たちが鳥取城に否応なく入るように仕向けたともいわれています。
秀吉が2万の大軍を率いて姫路城を出発したのが6月25日、但馬口から侵攻して鳥取城および支城の丸山城が包囲されたのが7月12日でした。厳重な城の包囲に加え、兵糧の搬入路になると目される千代川の河口付近にも砦を構築するという念の入れようでした。対する毛利勢は1400といわれる籠城兵に、雑兵や非戦闘員を加え3400ほどになったとみられます。鳥取城の本丸に吉川経家、二の丸は森下通与、三の丸を中村春続が守り、雁金山には塩冶高清、丸山城には山県左京進や但馬国の海賊大将の奈佐日本助らが籠もりました。秀吉は、鳥取城を堅固に包囲したままで、軍勢を動かしませんでした。前年からの下準備が功を奏して、鳥取城の糧米がわずかであるということを見越して、城方が音を上げるのを待つという戦略です。毛利方からの兵糧の支援を完全に断つため、本陣を帝釈山(本陣山)に置き、総延長3里(約12キロ)にも及ぶ包囲網で固めました。鳥取城付近に多数の櫓と陣屋を町屋作りに構え、将兵の略奪・暴行を防ぐための店や小遊廓をも作り、長期戦というよりは長期滞在に備えた構えを布いたのです。この城攻めに参陣した秀吉配下武将は、羽柴秀長・堀尾吉晴・仙石秀久・中村一氏・神子田正勝・黒田孝高・蜂須賀正勝・木村隼人・浅野長政・加藤光泰・木下重賢・桑山修理・杉原家次・宮部継潤らという錚々たる面々でした。とくに宮部継潤は道祖峠に進出し、久松山と雁金山の通路を遮断するという大きな働きを見せました。
当初、木の実や皮などを食べてつないでいた城兵たちは、やがて牛や馬のみならず、秀吉勢に鉄砲で撃たれた味方の死体から肉を切り取り、それを食べるようにまで追い込まれていました。日本史上において、人肉を食したという記録は殆ど見られませんが、その例外中の例外がこの第二次鳥取城攻めです。日夜問わず撃ちかけられる鉄砲と、間断なく行われる威力偵察で城内はほとほと疲れ果て、飢えと精神的疲労で、もはや兵、住民たちは正気を保つ事さえ困難でした。飢餓に苦しみ助けを請う人々は鉄砲で撃ち倒され、その死体の人肉が陣中で奪い合いになるという地獄絵図が繰り広げられ、「栄養価が最も高い脳味噌が真っ先に屍体から剥ぎ取られた」という記録まで残っています。
さらには8月23日(9月16日とも)、毛利方からの補給兵糧を運んでいた毛利水軍が千代川河口において、信長の命を受けて赴いた細川藤孝配下・松井康之の軍勢に攻め破られたことにより、城中の兵糧は絶望的となりました。はじめ経家は、冬まで持ちこたえることができれば秀吉軍は囲みを解いて帰るに違いないと考えていました。しかし、頼みの糧道を寸断され、その冬まで城中の兵糧が持たなかったのです。
毛利氏も、この状況を傍観していたわけではない。鳥取城を支援するための糧道を切り開くため、吉川元長率いる軍勢を山陰方面の出雲国から伯耆国へと向けて派遣しましたが、織田方の南条元続・小鴨元清らの守る羽衣石城で足止めされてしまい、これを落とすことができずに阻まれていました。また山陽方面においても織田勢の攻勢が活発であり、毛利輝元や小早川隆景らがこれに対応するために釘づけにされていたのです。万策尽きた経家は、家臣の野田春実を秀吉の陣所に送り、自身の切腹と引き換えに城兵の助命を要請しました。
はじめ秀吉は、一度は降った鳥取城が再び敵対することになった根源は、中村・森下の2人にあるとして、経家は殺さずに中村・森下らに責任を取らせようと考えていたようですが、経家の固い決心を翻させることはできませんでし。10月25日経家は、秀吉から届けられた城兵を全て助命することを保証する旨の誓書を確認したうえで自刃しました。なお、その前日の24日の夜に、森下・中村・塩冶・奈佐らが、各々の持ち場で自刃していました。こうして、百日余に及ぶ鳥取城の籠城戦は終結しました。
この鳥取城の戦いは、織田氏と毛利氏の抗争における重要な意味を成し、毛利氏にとっては天正8年(1580)の三木開城に続き、東進の拠点を失ったことになり、織田氏においては中国地方侵攻への門を大きく広げることになったのです。
○「鳥取城跡(久松公園)」(鳥取市東町)
「鳥取城跡」(久松公園、きゅうしょうこうえん)は、久松山頂(標高263m)の「山上の丸」を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭です。山上の丸にはかって天守がありましたが、現在は天守台が残るだけで、遺構はほとんど失っています。山下(さんげ)の丸は久松公園として整備され、石垣が整然と並び、仁風閣(じんぷうかく)・県立博物館などが建っています。
因幡を統治した山名氏の出城として、天文14年(1545)に山名誠通(やまなのぶみつ)が久松山に築いたと伝わります。天正9年(1581)、当時の鳥取城主山名豊国は、羽柴秀吉の鳥取城攻めによって同盟を結ぶ毛利氏に背いて秀吉に降ったため、家臣に追放されたともいいます。代わって城主に吉川経家を迎えますが、秀吉の2回目の鳥取城攻めで落城し経家は自刃します。
【鳥取の飢殺し】
秀吉は鳥取城を攻めるにあたり、黒田官兵衛の策を採用しました。いたずらに攻め立てても、味方の兵を失うだけ。かといって、単に城を取り囲んで兵糧攻めにしたところで、兵糧が尽きて降参するまで時間が掛かり過ぎます。実際、三木城の戦いでの籠城は1年10カ月も続いたのです。「鳥取の飢殺し(かつえごろし)」とは、第二次鳥取城攻めの別称です。「鳥取の渇え殺し(鳥取の渇殺し)」ともいいます。 羽柴秀吉はこれに先駆けた天正6年(1578)に、播磨三木城攻略戦で兵糧攻め(三木の干殺し)を用いましたが、ここ鳥取ではそれをはるかに上回る凄惨な状況を生み出した事で有名です。鳥取の飢殺し、三木の干殺し、さらに高松城の水攻めと併せて、秀吉三大城攻めと呼ばれます。
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