古戦場めぐり「下関戦争(山口県下関市)」
◎『下関戦争』
「下関戦争」は幕末に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、文久3年(1863)5月10日と同4年(1864)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件です。今日では、1863年のことを「下関事件」、1864年のことを「四国艦隊下関砲撃事件」と呼んで区別しています。
孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3年(1863)5月10日をもっての攘夷実行を約束しました。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、長州藩は馬関海峡(現関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施することになります。5月10日、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えました。約半月後の6月、報復として、アメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えました。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行しました。
元治1年(1864)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは、長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定します。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成しました。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて、馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊しました。馬関海峡の砲台を、四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化してゆくことに積極的になります。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年(1866)1月21日、同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになります。
○「みもすそ川公園」(下関市みもすそ川町1)
「みもすそ川公園」は、山口県下関市にある都市公園(街区公園)です。源平合戦の最後の舞台となった壇ノ浦に面し、国道9号と関門海峡に挟まれて立地します。当公園は、幕末の下関戦争時に活躍した長州藩の砲台跡であることから、5門のレプリカが海峡に向けて設置されています。うち1門は、硬貨を投入することで砲撃音と煙の演出を楽しむことができます。
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