古戦場めぐり「萩の乱(山口県萩市)」
◎『萩の乱』
「萩の乱」は明治9年、山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つです。1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱です。後の内閣総理大臣(第26代)田中義一も13歳で反乱に参加しています。
萩の乱に至る伏線として、「護国軍」の結成があります。佐賀の乱による県内の人心の動揺を恐れた山口県令・中野梧一は、一誠を訪ねて対策を依頼しました。一誠の檄に応じて集まるもの、1000余人。明倫館の講堂を軍議所としました。佐賀の乱はまもなく平定され、護国軍も出動することなく解散しますが、一誠や諸隊士の胸に去来したものは、いったい何だったでしょうか。
木戸孝允らは、一誠が不穏な動きの渦中に巻き込まれていることを憂慮し、明治8年の春、朝旨を拝いで上京を促しました。6月、一誠は萩を発って東上しましたが、元老院議官への推任を辞退して、8月には早くも萩へ帰っています。その間、事態は刻一刻と切迫し、一年後の9年8月、一誠は同士の幹部と密議し、熊本の敬神党(神風連)、福岡の秋月党と東西呼応して挙兵することに決しました。敬神党は10月24日、秋月党は26日をもって蜂起、一誠らも明倫館に会して「殉国軍」を結成し、27日に決起しました。この日は、奇しくも松陰が処刑されてから18回目の命日でした。挙兵の名義とするところは、上京して天皇に諫奏し、君側の奸を除くというものでした。戦いは11月6日の政府軍の総攻撃で、殉国軍は壊滅し、事件は落着しました。捕らえられても前原は、できるかぎり決起の理由を人々に広く知らせたいと思い続けました。ですから、前原が11月6日に捕らえられたのも、東京に護送されるという条件だったようです。前原は東京で、正々堂々と政府と高官たちを徹底的に糾弾し、その後に断罪になればいいと考えていたのです。しかし政府は、前原にその機会を与えようとはしませんでした。12月3日、前原一誠をはじめ、次弟の山田頴太郎、末弟の佐世一清、奥平謙輔、横山俊彦ら8人が斬刑に処せられ、64人が懲役もしくは禁固刑、保免403人でした。
西郷隆盛による西南戦争が勃発したのは、萩の乱に遅れること4カ月、明治10年2月のことです。後に前原一誠に対して政府は、大正5年4月11日、維新前後における勲功により、特旨をもって従四位を贈っています。
○「松下村塾・吉田松陰と前原一誠」(萩市椿東1537)
吉田松陰が刑死してから、萩の乱まで17年の歳月が流れています。時代が大きく変革していくなかで、師・松陰の教えが、前原一誠の心の中で、どのように膨らんでいったのでしょうか。松陰は佐世八十郎時代の一誠を評して、「八十、勇あり、智あり、誠実人に過ぐ。(略)その才は『実甫久坂(玄瑞)に及ばず、その識は暢夫高杉晋作』に及ばず、而してその人物の完全なること二子も亦八十に及ばざること遠し。八十、父母に事えて極めて孝…」と、大いに賞賛しています。
一方、松陰の没後、一誠は「先師既に忠義に死す。予、門生となりて遺志を奉じて、忠義に死す能わずんば、何の面目あってか、地下に先師に見えんや」と、追慕の情きわめて切です。一誠は松陰の門下生で、師の松陰から至誠の人として折紙をつけられたほどに、生真面目で融通のきかない人間で、明治維新の理想をその全存在で追求し実践しようと心がける人間でした。
両者はともに、時勢についての関心が深く、時局を憂うる心情がとくに強かったと思われます。元来、松陰精神の特徴は、思想や判断に優先する、ひたむきな行動精神にあるといえます。萩の乱における一誠の思想行動について、河上徹太郎氏は、その著『吉田松陰』のなかで、次のように述べています。
「一誠は、松陰が最も信頼した弟子の一人で、ある意味では、その節に殉じたのである。松陰が愛した甥の吉田小太郎は乱に加わって戦死し、松陰の精神的育ての親ともいえる玉木文之進は、松陰精神で育てられた多くの青年が反徒となった責任感から、『萩の正気すでに尽きたり』と割腹している。とにかく、一誠の動機である義憤は、松陰直伝のものであり、このとき、松陰が生きていたら、どんな感慨を抱くであろうか。」
【前原一誠旧宅】(萩市土原)
前原一誠旧宅の広い庭には、萩名産の夏ダイダイが植えられています。夏ダイダイは、明治維新後、職を失った藩士たちの殖産事業一つとして奨励され、この地に定着しました。一誠は天保5年(1834)3月20日、長門国土原村馬場丁(現山口県萩市)に長州藩士佐世彦七・すえの長男として生まれました。本姓は佐世氏で、はじめ八十郎(やそろう)と称し、明治以後は一誠を通称しました。佐世氏は近江尼子氏の一族で、一門の米原左衛門尉広綱は武名が高く、尼子十勇士の一人でした。前原の称は一誠が慶応元年(1865)米原の発音に近づけて一字を改めたものです。八十郎が吉田松陰の門をたたいたのは、安政4年(1857)旧暦10月末、24歳のときでした。このとき、松陰から講受されたのは『日本政記』です。その後、家の都合で再び目出村に帰ることになりますが、松陰との出会いで八十郎の感銘は大きかったようです。「父に呼ばれて『お前は萩に出て、吉田先生に学ぶがよい』といわれたとき、平素より先生に師事したいと願いっていた私は、数年来の宿意が果たされ、雲霧晴れて白日を望んだ気持ちだ。私は性愚かで、学問は未熟である。先生の一言一句を聞き漏らさず、忠義の心あつくして自信を持って自ら任じなければならない」と、興奮して日記にしたためています。安政5年5月、八十郎一家は萩に移り住むことになります。安政6年2月、八十郎は藩命で西洋学研究のため長崎に西下することになりますが、出発まで師松陰に面会する機会を得ませんでした。その後江戸送りになった松陰は、伝馬牢で処刑されました。ときに安政6年10月26日でした。
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