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2016年07月20日06:19

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古戦場めぐり「源平合戦・壇ノ浦の戦い(山口県下関市)」

古戦場めぐり「源平合戦・壇ノ浦の戦い(山口県下関市)」

◎『源平合戦・壇ノ浦の戦い』
「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年(1185)3月24日に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が、滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いです。平安時代末期に6年にわたる大規模な内乱「治承・寿永の乱(源平合戦)」が繰り広げられ、
壇ノ浦の戦いは、源氏に敗れた平家が滅亡に至った源平合戦最後の戦いになりました。
治承4年(1180)、源頼朝が平清盛を中心とする平氏政権打倒に向けて挙兵します。各地で戦いが続き、中国・四国・九州を制圧された平家は下関市の彦島で孤立してしまいます。彦島の平家を倒すべく、義経は840余艘の水軍を編成します。平家は500艘でしたが、大将・平知盛は得意な海上戦で挽回を狙います。関門海峡は狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の向きも変わるという特徴があります。
元暦2年/寿永4年(1185)3月24日、午前に始まった合戦は、開戦直後は激しい東流れの潮流を利用した平家が優勢に進めると、不利を悟った義経が掟破りの平家水軍の非戦闘員の水手・梶取を射させる戦法に出ます。平家方に混乱が生じ、源氏が優勢に変わると、源氏方へ裏切る者も相次ぎ、昼近くに潮の流れが西に変わると攻勢は完全に逆転し、平家は壊滅状態となりました。
敗北を悟った平家一門は、次々と海へ身を投げていきました。せめて大将の義経だけは道連れにと、平家きっての武将・平教経は義経の船に乗り移り追いつめますが、義経は飛び上がり船から船へと飛び移り逃げていきました。これが、俗にいう「義経の八艘飛び」です。死を決意した二位の尼(平時子)も、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて入水しました。後を追った帝の母・建礼門院(平徳子)は入水しますが生き残り、京へ送還されます。海へ身を投げた平家一門の最後を見届けた知盛ら、主要武将も次々と入水します。総帥である宗盛も息子と入水しますが、引き上げられ捕虜となり、壇ノ浦の戦いは終わりました。あと少しの所で死にそこねた建礼門院は、まだ29歳の若さでしたが尼となり、それから30年間の余生を京都大原寂光院で送りることになりました。そこには後白河法王も気遣って訪問して、彼女を励ましました。激戦の地壇ノ浦では、その後、漁師は正座して釣りをするようになったといいます。その下に安徳天皇が眠っているからです。この戦いの後、平家一族は歴史の表舞台に再び現れることはありませんでした。

○「壇ノ浦古戦場(みもすそ川公園)」(下関市みもすそ川町1)
「みもすそ川公園」は、早鞆(はやとも)の瀬戸といわれる関門海峡の一番狭まったところにあります。源平合戦の最後となる壇ノ浦の戦いが行われた場所であるとともに、幕末の攘夷戦で長州藩が外国船に砲撃した砲台跡でもあります。公園中央には、八艘跳びの源義経像と錨を担いだ平知盛像が設置されています。
【平宗盛】
平宗盛は、平清盛の息子(三男)ですが、愚鈍で傲慢さらに臆病という性格だったという説があります。母である二位の尼(平時子)は、壇ノ浦の戦いで醜態をさらす息子を見て、「宗盛は清盛と自分の子ではない」と言い放ったといいます。宗盛の醜態は最後の最後まで続き、平家の敗北が決し一門が次々と入水していく中、宗盛はぐずぐずして入水しませんでした。それを見ていた一門は、あまりの情けなさに激怒し、とっつかまえて無理矢理海へ突き落としました。しかし泳ぎが得意だったため、さらに逃げ回ったといいます。一方、妻子への情愛を持った優しい人物だったようです。
【平家蟹と小平家】
壇ノ浦や北九州沿岸で獲れる蟹は、甲羅に怒りに満ちた顔のような模様があります。これは、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の亡霊が乗り移ったためだという伝説があります。また、壇ノ浦の戦いで入水した平家の女官は美しい小鯛に化身したといわれており、壇之浦の周辺で獲れる小鯛は小平家(こべけ)と呼ばれています。
【安徳帝御入水之処碑】
二位尼による辞世、「今ぞ知るみもすそ川の御ながれ 波の下にもみやこありとは」が刻まれています。
【松本清張文学碑】
作家・松本清張が、幼少時の一時期に下関市に住んでいたことを記念した文学碑です。自叙伝的小説『半生の記』の一節が刻まれています。中央に開いた穴からは、関門海峡を挟んだ対岸にある和布刈神社(小説『時間の習俗』の舞台)が望める趣向となっています。
【下関戦争】
壇ノ浦の戦いから700年近く経った1864年、再び関門海峡が歴史上に現れます。幕末の長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ四国との武力衝突事件、いわゆる下関戦争です。公園内は下関戦争時に活躍した長州藩の砲台跡のため、5門の長州砲が設置されています。そのうち1門は、100円を投入すると砲撃音と煙の演出が楽しめます。当時、ここの長州砲台がどうなったかというと、強力な四国連合艦隊(17隻延べ5000人以上の兵力)によって無力化し、長州藩は武力での攘夷を放棄し、海外からの技術や知識を取り入れるようになります。そして、坂本龍馬らの仲介により薩長同盟が結ばれ、倒幕への道を歩んでいくこととなりました。

○「平家の一杯水」(下関市前田)
みもすそ川公園から東へ15分歩いた場所で、海峡れすとらん「しずか」の横に「平家の一杯水」があります。壇之浦の戦いでは捕虜になる者、入水する者以外に、深手を負い、命からがら岸に泳ぎ着く武将もいました。傷ついた武将が岸で小さな湧き水を見つけ、喉を潤そうとすすったその水は真水であったといいます。しかし、武将が夢中になって二度目を口にしたところ、真水が塩水に変わっていたという伝説があります。また、安冨静夫著『水都の調べ 関門海峡源平哀歌』によると、「この井戸は干潮のときには火の山からの伏流水が真水で流れ出し、満潮のときには海水で満たされます」とあり、これが伝説のもととなったと考えられます。この井戸の水は、毎年大晦日の夜に汲み上げられ、赤間神宮の安徳天皇へお供えされるそうです。現地案内板に次の記載があります。
《寿永4年(1185)3月24日、源義経を総大将とする源氏と平知盛が率いる平家は、最後の一戦を壇ノ浦でくりひろげました。開戦当初は、東向きの流れに乗った平家が有利に戦っていました。やがて、潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏方は反撃を始めました。潮流に乗った源氏は、平家の船を操る水夫(かこ)と舵取りを弓矢で狙いました。こぎ手を失った平家の船は潮の流れに引き込まれ、完全に自由を失いました。そうなると、勝敗はもうはっきりしています。平家方のある者は捕らえられ、または海に沈み、または傷を受けてようやく岸にたどり着いた者もありました。そのうちの一人の平家の武将は、全身にひどい傷を受け海に落ちましたが、命がけで泳ぎ岸にたどり着きました。その武将は傷の痛みと疲れで喉がカラカラに渇ききっていました。あたりを見渡すとわずかな水たまりを見つけたので、武将は痛む体を引きずって、水たまりに近づき、その水を手のひらにすくい喉をうるおしました。その水の美味しいこと、武将にとっては命の水とも思えるものでした。あまりの美味しさに夢中になって二度目を口にしたところ、大きくむせて吐き出してしまいました。不思議なことに真水は塩水に変わっていた、といわれています。》

○「赤間神宮」(下関市阿弥陀時町4-1)
「赤間神宮」は、貞観元年(859)に阿弥陀寺として開闢、旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて、幼くして亡くなった安徳天皇を祀ります。江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていました。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、『耳なし芳一』の舞台でもあります。
【七盛塚(平家一門の墓)】
壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)。以下14名の供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称します。
【耳なし芳一】
「耳なし芳一」は、安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を舞台とした物語、怪談。小泉八雲の『怪談』にも取り上げられ、広く知られるようになりました。

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