mixiユーザー(id:7184021)

2016年07月18日06:06

2061 view

古戦場めぐり「長州征伐・芸州口の戦い(広島県大竹市)」

古戦場めぐり「長州征伐・芸州口の戦い(広島県大竹市)」

◎『長州征伐・芸州口の戦い』
「長州征伐」(ちょうしゅうせいばつ)は、元治元年(1864、第一次長州征伐)と慶応2年(1866、第二次長州征伐)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために、長州藩領のある周防国、長門国へ向け征討の兵を出した事件を指します。長州征討、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれます。
元治元年(1864)朝廷の命令により、幕府は西国の諸藩に対して長州への出動を命じました。前尾張藩主の徳川慶勝を征長総督に、副将に越前藩主の松平茂昭を任命し、広島城には3万の兵が集結しました。大竹市域でも、静かな庶民の暮らしが一変し、幕府軍の兵糧確保のために人夫が動員され、玖波駅には白米百石が集められ、さらに桶や平釜にいたるまで用意を命令されました。小方に知行を持つ上田氏も小方村に陣屋を構え、木野一馬以下15人の家臣を配置し、最前線の警護にあたったとされています。幕府軍は、長州藩が罪を認めれば寛大な処置をとるという方針であり、集まった各藩も決して戦いには乗り気ではありませんでした。また、長州藩も禁門の変などの影響で幕府と戦える状況ではなく、禁門の変の首謀者とされる3人の家老、益田右衛門介、福原越後、国司信濃の首を広島城下国泰寺境内に差し出し、謝罪降伏を申し出ました。これにより「第一次長州征伐」は、直接の戦闘は回避され全軍撤退しました。佐伯や大竹は諸藩が支払った費用で潤ったといわれていますが、戦時体制化にあって船舶の運航が差し止められ、生活に大きな支障が出たともいわれています。
第一次長州征伐から2年後の慶応2年(1866)、長州藩は薩摩藩と同盟を結び、密かに武器の調達を行って軍備の近代化を図るなど、倒幕に備えました。こうした長州藩の動きを察知した幕府は、再び諸藩に長州への出動を命じ、尾張藩主徳川茂徳を先手総督として、彦根藩主井伊直憲、高田藩主榊原政敬を先鋒に、広島藩ほか11藩に従軍の命令を出しました。しかし、薩摩藩はすでに長州藩と同盟関係にあり、幕府の出兵要請を拒否しました。また、広島藩も先鋒役を辞退しています。そのため、広島藩は幕府軍の諸藩から「広島藩を攻撃しろ」という声が出るなど、幕府と長州藩のどちらからも攻撃されかねない苦しい状況にありました。「第二次長州征伐」では、朝廷から長州征討の命令がなかなか出されず、諸藩は足並みが揃っていない状況でした。一方、長州藩は第一次長州征伐以来、戦いに備えて軍備を整えており、幕府軍を迎え討つ構えでした。また、この戦いは長州では「四境戦争」とも呼ばれており、幕府軍は、「芸州口」、「周防大島口」、「石州口」、「小倉口」の4方面から長州藩を攻め込みました。
第二次長州征伐において、広島城に集結した幕府軍は、彦根藩(滋賀)、紀伊藩(和歌山)、高田藩(新潟)、与板藩(新潟)など3万の軍勢に達していました。そして、慶応2年(1866)6月13日には、彦根藩と与板藩の兵は油見村顕徳寺に陣を置き、その日のうちに彦根軍の500の兵は大竹村の大瀧神社に進み、一部は小瀬川(現在の大和橋付近)に布陣しました。また高田藩は、13日の夜に大野から小方に進み、苦の坂への進撃のために同夜立戸の山に布陣し、一部は与板藩の兵とともに小島新開に陣を置きました。13日夜10時頃、大竹側から大砲が三発発射されましたが、対岸の和木側は静かなままで、誰も陣取っていないといった様子だったといわれています。迎え撃つ長州藩は、岩国兵が主力となりました。これに長州藩の部隊である御楯隊・吉敷隊などが加わり、和木村の川岸の竹やぶに陣を敷き、息を凝らして待ち受けていました。小瀬川口の総督は、岩国領主(藩主)の吉川経幹があたり、長州藩の宍戸備前を総大将とした各諸隊は、関戸の峠を越えて小瀬村に入り、苦の坂に近い小原に陣を置きました。また一部の隊は、13日夜にはすでに大竹側の中津原(現在の木野一丁目)に進み、夜明けを待っていました。翌14日早朝、彦根藩は竹原七郎平と曽根佐十郎を使者に立て小瀬川を渡らせました。竹原七朗平は、封書を高く掲げ川を渡っていましたが、川の中央に差しかかったとき、対岸から一斉に銃撃に遭い、2人とも撃たれ倒れてしまいました。使者が狙撃され、そのまま戦闘が開始されました。小瀬川を渡ろうとする彦根軍は、和木村川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられるなど、壮絶な戦闘状態になり、小瀬川が地の海になったといわれています。彦根軍も抵抗し、互角に戦っていましたが、関戸から進入した長州軍が二手に分かれ、一隊は木野村の山から大竹村に入り、大龍寺(現在の元町二丁目)辺りからに彦根軍を背後から挟み打ちにしたため、彦根軍はついに総崩れとなり、小島新開に敗走しました。敗走した兵は、小島新開に用意してあった舟により沖に逃れましたが、小島新開を守備していた与板藩の兵が先に撤退乗船していたため、逃げ遅れた多くの彦根藩の兵が長州藩の追撃に遭い、多くの戦死者を出しました。その頃、苦の坂では、高田藩が立戸の山から苦の坂に1000の兵を進めていましたが、長州藩の宍戸備前が率いる200人ほどの隊と対峙し、激しい戦闘を展開しましたが、持ちこたえられず小方に追い返されました。長州藩は、兵の数は少ないものの当時最新鋭のフランスのミニエー銃を用い、旧式の装備の幕府軍を圧倒しました。そして、高田藩はそのまま東に退却し、玖波の港から大野四十八坂を越えて戦場から逃れました。その間に、大竹・油見の町は火の手が上がり、立戸・小方・玖波にまで広がり、町全体が火の海になりました。こうして、長州藩は玖波村まで進撃しますが、それ以上は進むことができず、玖波・小方・苦の坂に警備隊を配置して、全軍中津原の本陣に引き上げました。その後、幕府軍は戦力の立て直しを図り、西洋式の装備を持つ紀州藩が投入されました。6月19日に大野四十八坂で再び戦闘が行われましたが、長州軍がいくら押しても紀州藩の兵は引くことはなく、引き分けとなりました。その後も各地で戦闘が行われましたが、一進一退を続けこう着状態となりました。9月2日に幕府は勝海舟を派遣し、宮島の大願寺において、長州藩の広沢兵助らと交渉が行われ、両軍とも追い打ちをしないことを確約し、停戦となりました。「芸州口の戦い」は、引き分けに終わりましたが、周防大島口、小倉口、石州口では幕府は完敗しました。そのため、幕府の威信を大きく失墜し、そして翌慶応3年(1887)10月14日、第15代将軍徳川慶喜により「大政奉還」がなされ、264年続いた徳川幕府は終わりました。

○「青木公園の長州之役戦跡の碑」(大竹市新町3丁目)
明治百年を記念して昭和43年12月、芸州口の戦いで激戦の行われた小瀬川を見つめるように、青木神社境内に記念碑が建てられました。この碑は、平成16年1月に、境内より前面の小瀬川河川敷内の青木公園に移設されました。次の表記があります。
「慶応二年五月二十八日、長州藩応戦を布告幕府の先陣井伊榊原軍ここ大竹口に陣を進め、木野川を隔てて毛利吉川軍と相対す。六月十四日未明戦いの火蓋は切られ両軍大竹口で激戦幕府軍敗走す、死傷者多数兵火により家財を失う者九千人にのぼる。九月二日両軍の休戦成り、これより中央政局は西南藩に指導され明治維新へと動く」

○「厳神社の城六兵衛顕彰碑」(大竹市小方1-18)
芸州口の戦いが開戦した翌日の6月15日、広島藩では佐伯郡の代官山田喜和馬に命じて、郡衛徒士の城六兵衛ら4人を焼き払われた町の視察のために玖波に向かわせました。城六兵衛らは舟で玖波に向かいましたが、玖波の沖合で、長州兵に見つかりました。長州兵は、幕府軍の舟と思い、銃口を構えて一斉射撃を開始しました。城六兵衛は、「芸州藩の役人じゃ、銃を収めてくだされ」と大声で叫びましたが、長州軍の銃撃は止まず、無念にも城六兵衛は胸を撃ち抜かれました。ほとんど即死であったといわれています。この事件に対し、長州方は謝罪し、厳神社境内に顕彰碑(木碑)が建てられました。

○「西念寺の砲弾跡」(大竹市小方2-10)
芸州口の戦いも終盤に入った頃、西念寺は長州軍の本陣となっていました。8月2日昼下がり、それを察知した幕府は宮島の須屋浦から軍艦2隻と和船4隻が小方沖に近づけ、西念寺に向かって艦砲射撃を開始しました。その一発が、本堂入り口上部の桁・梁を支える肘木をぶち貫きました。西念寺では、今もその傷跡がそのままの状況で残されています。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する