古戦場めぐり「長州征伐・小倉口の戦い(福岡県北九州市)」
◎『長州征伐・小倉口の戦い』
「長州征伐」(ちょうしゅうせいばつ)は、元治元年(1864)と慶応2年(1866)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために、長州藩領のある周防国、長門国へ向け征討の兵を出した事件を指します。長州征討、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれます。第二次長州征伐の際、幕府軍は小倉から下関を越えて長州上陸を狙います。これに対し長州藩は、大島口から戻ってきた高杉晋作が小倉方面指揮官となり、奇兵隊を率いて関門海峡を渡り、逆に福岡に上陸戦を挑みます。門司付近に上陸しては、小倉・熊本藩兵との激戦の後、幕府方の防砦を破壊し、また船で戻るということを2度繰り返し、3度目の上陸戦で、とうとう幕府側の拠点の小倉城まで陥落させます(小倉口の戦い)。
この幕長戦争で幕府軍は長州藩を、芸集口・石州口・小倉口・大島口の四方面から攻めこもうと計画していました。長州藩は大島口を除く三方面では長州藩兵は自藩領で迎撃するのではなく、自藩領から出兵して積極的に攻勢に出る作戦を立てます。この作戦に従い芸州口には河瀬安四郎・太田市之進等が率いる遊撃隊・御楯隊・鴻城隊・鷹徴隊等が、石州口には大村益次郎率いる南園隊・精鋭隊・育英隊等がそれぞれ向い、そして小倉口へは高杉晋作率いる奇兵隊・報国隊・正名団・忠告隊等が出撃します。
慶応2年(1866)6月17日、このような状況の元、ついに高杉は小倉藩領への上陸作戦を指示します。まず第一陣として山県有朋・三好軍太郎等が率いる奇兵隊の第一銃隊・第六銃隊・一番砲隊と、福原和勝率いる報国隊の四番小隊・六番小隊が出撃し関門海峡を渡海します。この内奇兵隊は大久保海岸に上陸し、報国隊は田の浦に上陸します(田の浦の戦い)。これに対し小倉藩兵は門司周辺に布陣していて、上陸してきた長州藩兵に攻撃を開始しますが、小倉藩兵は長州藩兵と比べて近代化が遅れていたため銃隊が少なく、軍勢としての動きも長州藩兵に遥かに劣り、そして何より小倉藩兵には本気で長州藩兵と戦おうと戦意が少ないため、奇兵隊の猛攻を支えきれず敗走します。その後、下関本営から第一陣に続いて第二陣が出撃し、門司方面に直接上陸を開始します。この第二陣は門司に布陣していた小倉藩兵と激突し、これを撃破します。かくして門司周辺の小倉藩兵を駆逐した長州藩兵は、全軍が門司に上陸しますが、一旦全軍を下関本営に撤退させます。
7月3日、再び長州藩兵は上陸作戦を開始します。一方で、小倉藩兵単独では長州藩兵に対抗出来ないと判断し、他の小倉口に集結している諸藩兵や幕府艦隊に協力を求めます。しかし、長州藩に恨みがある訳ではない諸藩兵からは協力を得ることができず、また幕府海軍も煮え切らない態度を取っていたので、このように諸藩兵や幕府海軍の協力を未だ得ていない状況のまま、二度目の長州藩兵の侵攻を迎えることになります。17日同様に、田の浦・大久保海岸付近から上陸した長州藩兵は、上陸後に軍を二つに分け、海岸線沿いと山間部の両方から小倉藩の重要拠点の大里目指し進撃します。この大里に小倉藩兵は布陣し、長州藩兵の攻撃を受けても頑迷に抵抗します。特に大里砲台からの砲撃には長州藩兵も苦戦し、この大里砲台に強襲を仕掛けるものの、奇兵隊第四銃隊隊長阿川四郎が戦死するなどの損害を受け、撃退されます。また大里砲台近くの御所神社には、小倉藩兵の数少ない銃隊が篭り、松林内から長州藩兵に銃撃を加えます、これを駆逐しようと、奇兵隊第四銃隊押伍の堀滝太郎が攻めかかりますが、彼もまた銃弾に倒れます。かくして苦戦を続ける長州藩兵でしたが、次々に新手を繰り出すことにより、次第に戦況は長州藩兵の優勢となり、遂には小倉藩兵も力尽き、赤坂方面に撤退しますが、長州藩兵にこれを追撃する余力はなく再び下関に撤退します。
7月27日、長州藩兵は三度目の上陸を果たし、これに対し小倉藩兵は大里に布陣しますが、もはや小倉藩兵に長州藩兵の攻撃に抵抗する気力は無く、長州藩兵の攻撃の前にあえなく敗退します。この後、長州藩兵は軍を分け海岸線沿いに福原和勝率いる報国隊が進み、山間部を山県有朋率いる奇兵隊が進み、そして時山直八が迂回部隊を率いて、一気に三方面から小倉平野への突破を試みて進撃を開始します。しかし、この小倉平野への最後の関門の赤坂口には、それまで傍観を決め込んでいた熊本藩藩兵が布陣しており、延命寺山に本陣を置き、弾正山に主力を置くなどして、長州藩兵を迎え撃つ体制を整えていました。この赤坂は、小倉平野に出るまでの最後の要所で、この要地を突破しない限り小倉平野には出られないという、正にこの小倉口の戦いの天王山でした。また、この地に布陣した熊本藩兵は、前々より軍の近代化をしており、数は多くはないですが銃隊が正式編成されていました。また、熊本藩兵は当時最新鋭のアームストロング砲を装備しているなど、装備の点では長州藩兵と互角以上の軍勢でした。このような訳で、強兵熊本藩兵が守る赤坂口を突破するのは至難の技でしたが、遂に長州藩兵は赤坂に対し進軍を開始します。まず、海岸線を進軍してきた報国隊が攻撃を開始しますが、逆に熊本藩兵の砲撃に多大な損害を受け撃退され、福田率いる報国隊の攻撃は頓挫することになります。続いて山県率いる奇兵隊が、山間部より赤坂の突破を試みます。この奇兵隊と熊本藩兵による一進一退の激戦が繰り広げられますが、遂に猛将山田は銃撃を受け戦死します。かくして、遂に熊本藩兵が守る赤坂口を突破出来ずに、遂に全面撤退することになります。この日の「赤坂口の戦い」は熊本藩兵の勝利に終り、初めて長州藩兵の攻勢は失敗することになります。
長州藩兵を撃退した熊本藩兵でしたが、流石に長州藩兵との死闘は熊本藩兵にも少なからずの損害を与えたので、熊本藩兵は小倉口の幕府軍総督の小笠原長行に赤坂守備の交代を求めますが、確固たる戦略を持たない小笠原はこれを拒絶します。かくして7月29日、不満の頂点に達した熊本藩兵は、独自の判断で赤坂を放棄して撤退します。この熊本藩兵の撤退を受けた小倉藩は、慌てて自藩兵を赤坂に送り泣きつくものの、熊本藩兵は小倉藩の懇願を受け入れることはありませんでした。そしてこの日、将軍徳川家茂が死去したという知らせが入ります。これに衝撃を受けた小笠原は半ば錯乱し、一人軍艦富士に乗り小倉口から逃げ出します。この小笠原の逃走を知った小倉滞陣の諸藩兵は、悉く自領に引き上げを開始します。結果、小倉に残るのは小倉藩兵のみとなり、小倉藩兵は単独で長州藩兵と戦わなくてはいけなくなりました。このような絶望的な状況の中、一旦は小倉城を枕に討死する覚悟を決めますが、遂に8月1日、小倉藩兵は自らの居城に火を掛け、全藩兵とその家族達は、小倉領南東の山岳地帯である平尾台を目指して総撤退を行ないます。
こうして平尾台に撤退した小倉藩兵は、そこを拠点に小倉城下を占領した長州藩兵に対し、活発なゲリラ戦を仕掛けるようになります。これに業を煮やした長州藩兵は、平尾台の西側から山県が東側から時山が、それぞれ軍勢を率いて攻め込みますが、これまでは長州藩兵の前に無様な敗北を続けた小倉藩兵は、このゲリラ戦では生まれ変わったかのように、長州藩兵を翻弄し苦しめさせ、長州藩兵の攻勢を何度にも渡って阻みます。さらに、小倉藩兵は長州藩兵を撃退後も、活発なゲリラ戦を仕掛け、長州藩兵の補給物資を奪取し、小倉城内に放棄した前藩主の遺骸を奪回するなど、長州藩兵が舌を巻くほどの奮戦を見せます。しかし、所詮拠点を失った軍勢に、長期的な戦闘が継続出来る訳がなく、佐賀藩と薩摩藩を仲介として両軍は和睦し、翌慶応3年(1867)1月20日、半年近く続いた小倉口の戦いは、講和により終結しました。そして、この講和の約3ヶ月後の4月14日、この小倉口の戦いの実質上の指揮官の高杉晋作は29年の激動の生涯を終えました。
○「小倉城」(北九州市小倉北区城内2-1勝山公園内)
小倉城は13世紀中ごろ、紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世の江戸時代前後に毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興が南蛮造の天守などを建てました。慶応2年(1866)、第二次長州征討で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決めます。同年8月1日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、幼少の藩主は熊本藩に退避します。家老以下の藩首脳は香春で指揮を執りました。慶応3年(1867)、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城を含む企救郡は長州藩の預りとされ、引き続き占領されたままとなったため、以後も藩庁は香春に置かれ、お茶屋(藩主巡察時の滞在施設)を中心に、付近一帯の町人宅も多数借り上げて設置されました。その後、明治2年に京都郡豊津(現在のみやこ町)に藩庁を新設し移転しました。
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