古戦場めぐり「筑後川の戦い(福岡県小郡市)」
◎『筑後川の戦い』
「筑後川の戦い」は、南北朝時代の延文4年/正平14年(1359)8月6日、筑後川(千歳川)支川豊満川流域の小郡原・大原・山隈原一帯で、南北朝が戦った九州での南北朝時代最大の合戦です。別名、大保原の戦い、大原合戦とも呼ばれ、日本三大合戦の一つ(他の二つは関ヶ原の戦い、川中島の戦い)に数えられます。
延元元年(1336)、後醍醐天皇は征西大将軍として九州に当時8歳の皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府としました。その後、足利尊氏が幕府の内訌であった観応の擾乱を治め、八幡の戦いを制し、正平9年/文和3年(1354)に南朝の支柱であった北畠親房が没すると、南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族のみとなりました。
延文4年/正平14年(1359)7月、征西大将軍懐良親王、宮方肥後の菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら南朝勢約4万は、筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦いました。戦いの苛烈さについては、頼山陽も詩に歌っています。この戦いで、足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて4800余人が討死にしたといわれます。この戦いに敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後、幕府が今川貞世を九州探題として派遣するまでの13年ほどは南朝の支配下に入ることとなりました。
征西大将軍宮懐良親王が布陣した場所が、現在の福岡県久留米市宮ノ陣(宮の陣神社)です。福岡県小郡市には、将軍藤(中大臣神社)、大保、前伏、高見下など、この戦いに関連すると考えられる地名や史跡があります。また、戦いののち、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗った場所が、筑後国太刀洗(たちあらい、現福岡県大刀洗町)であるという伝承があります。
○「毘沙門岳城と山隈城」(久留米市・小郡市)
両軍は、まずは筑後川を挟んで対峙しました。宮方は、筑後川南岸の高良山・柳坂・水縄山に陣をしき、懐良親王は高良山の「毘沙門岳城」に本陣を置きました。武家方は、最初は「山隈城」(花立山)に頼尚が本陣を置き、やがて筑後川北岸の味坂庄に移動しました。
【毘沙門岳城】(久留米市御井町)
毘沙門岳城のあった高良山は、ツツジがきれいな森林公園の南側にあたります。別名別所城。築城者は不明。城の北側には一見、障子堀に見える空堀と土塁があります。その背後の山がお城で、堀切や曲輪などが残っています。山頂が平べったくなっており、なるほどここが主郭だったようです。さらに南に曲輪が続いていて、土塁らしきものはたしかにあります。
【山隈城】(小郡市山隈)
「山隈城」は、城山、花立山ともいわれる山が城域で、筑前・筑後にまたがる要衝です。筑後平野がよく見渡せ、平野に山はここぐらい。少弐頼尚の築城で、筑後川の戦いでは当初頼尚の本陣になっていました。その後鰺坂へ移動しましたが、作編変更で前伏へ移動し、敗走してこの山隈城に逃げ込んだといいます。遺構としては、神社や駐車場になっている曲輪と、縄張り図では堀切が残ることになっていますが、非常に浅い堀切です。
○「高卒都婆」(小郡市大保)
筑後川の戦いにおける死者を葬り、僧侶数千人で供養したのがこの地だといいます。石碑の裏には、「現在でも掘ると人骨出てくる」とさらりと書いてあります。
【善風塚】
大原小学校のグラウンドに、「善風塚」の説明板が立っています。それによると、かつてこのあたりには小善風という4つの塚があり、さらに南には大善風という3つの塚があったといいます。それらを合わせて、「善風塚」と呼んでいたといいます。これらは、筑後川の戦いにおける7人の武将のお墓だったとされます。
○「前伏(東町公園)」(小郡市小郡)
相手方の少弐頼尚の本陣が置かれたのが大保原の「前伏」、現在の東町公園にあたりで、現地に行ってみると両軍の距離はかなり接近していたらしく、お互いの旗がはっきり見えたそうです。この公園には、「大原古戦場碑」がでーんと立ち、脇を六600年と650周年の碑がかためています。
○「中大臣神社」(小郡市福童)
中大臣神社のある福童といえば、菊池武朝が果敢に今川軍に戦いを挑んだ福童原の戦いの地でもあります。
【将軍藤】
中大臣神社には、懐良親王が傷つき、神の御加護祈願し治癒した事に因みお手植えしたとされる「将軍藤」があります。樹齢600年超。また藤といえば、良成親王も八女に藤を植えたといいます。
【福童原古戦場の碑】
中大臣神社付近に、「福童原古戦場の碑」と「千人塚」があります。この丘陵自体が千人塚なのだろうか。なお、福童原といえば筑後川の戦いで筑後川を渡河した菊池武光が布陣した場所とする書があったりもします。
○「宮の陣神社」(久留米市宮の陣5丁目)
渡河した懐良親王の本陣が置かれたのは宮瀬、つまり現在の「宮ノ陣神社」のある宮の陣です。宮ノ陣神社の祭神は、懐良親王と良成親王。
【将軍梅】
宮の陣神社には、親王お手植えの「将軍梅」があります。紅梅とされる古木ですが、痛みがひどいようです。
【遍万寺】
すぐ隣には、武光の弟が死者を弔うために開いたとされる「遍万寺」があり、「筑後川合戦之碑」が立ち本陣であったとアピールしています。菊池武光の出家した弟・正西(武邦)が、一日百万遍念仏を唱えたのが遍万寺の由来だといいます。
【国分寺】
南にある国分寺も、少し関係があります。筑後川の戦いの後、懐良親王が慰霊のために地蔵菩薩来迎図板碑を高良山に置いたとされ、明治の神仏分離令により国分寺に移されたといいます。
○「五万騎塚」(久留米市宮の陣3丁目)
「五万騎塚」は、筑後川の戦いにおける両軍の戦没者を敵味方関係なく弔い、大塚を築いたのが始まりです。かつてはなんと数千坪の規模を誇っていたようですが、現在は高速道工事でこの場所へ移されちっこい公園となっています。
○「大刀洗川」(福岡県大刀洗町)
戦いの後に、武光が川で太刀を洗ったというのが、大刀洗川の由来のようです。なんと場所が特定されているらしく、「菊池武光公太刀洗之碑」が立ち、ご丁寧に川まで降りることができます。また、大刀洗公園にも石碑があるようです。
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