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2016年07月12日06:23

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古戦場めぐり「佐賀の乱・佐賀城攻防戦(佐賀県佐賀市)」

古戦場めぐり「佐賀の乱・佐賀城攻防戦(佐賀県佐賀市)」

◎『佐賀の乱・佐賀城攻防戦』
「佐賀の乱」は、明治7年2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つです。佐賀の役、佐賀戦争とも呼ばれます。不平士族による初の大規模反乱でしたが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧されました。
明治7年頃の佐賀には、征韓論実行を主張する征韓党と、政府の欧化政策に反抗する保守的な憂国党の二大士族のグループがありました。政府内で征韓論を主張していれられず下野した前参議・江藤新平は、迎えられて征韓党の首領となりました。憂国党は、北海道開発の祖・前秋田県令島義勇を党主としてその数は1万余りに達しました。江藤は、ひとたびことを起こせば各地の反対分子があいついで呼応すると期待していましたが、その足並みはそろいませんでした。それに反して、政府の処置はすばやかったといいます。政府は陸軍省に出兵を命じ、参議、内務卿・大久保利通に兵馬の大権を授けて出張させました。岩倉高俊は佐賀県令に任じられ、熊本鎮台の兵を率い「佐賀城」に入り戦闘を開始しました。佐賀士族軍は一時佐賀城を奪回しましたが、洋式鉄砲訓練をうけた政府軍が攻勢に転じ完敗させられました。
江藤は、ひそかに鹿児島に逃れ西郷隆盛を頼りましたが、西郷はこれに応じなかったので、渡海して高知に赴き片岡健吉・林有造に会見しましたが、ただ自首を勧められるだけでした。江藤はさらに東上を企てましたが、高知県東端の甲の浦で逮捕され、佐賀に護送されました。ただちに軍事裁判が開かれ、江藤、島は梟首の惨刑に処せられました。後年、明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年に江藤新平正四位、島義勇従四位を贈位されました。

○「佐賀城攻防戦」(佐賀県佐賀市)
政府からの鎮圧命令を受けた熊本鎮台ですが、兵の中にも佐賀出身が多く動揺が広がっていました。司令官・谷干城も援軍を待っての進軍を主張していましたが、新県令岩村高俊の命もあり、2月14日には駐屯する1個半大隊の中から、第十一大隊(大隊長:中村重遠中佐は出張中で不在)を二分し、左半大隊は参謀山川浩少佐と隊長和田勇馬大尉が率い海路から、右半大隊は参謀佐久間左馬太少佐と隊長山代清三大尉が率いて陸路から佐賀に向かいました。翌15日に海路軍に護衛された岩村高俊らが佐賀に入城すると、江藤らは政府の真意を確かめるため、山中一郎を代表として派遣しました。しかし、岩村の「答える必要はない」との返答を受け、同日夜、県庁が置かれた佐賀城に籠もる鎮台部隊と交戦して大損害(3分の1が死亡)を与え敗走させました。佐賀の乱における政府軍の死者は、大部分がこの戦闘におけるもので、佐賀県大属小出光照、中隊長大池蠖二大尉(佐賀の乱での官軍戦死者で最高位)、沢田正武中尉が戦死、敗走中に包囲された津井城郷吉中尉が自刃したほか、山川浩少佐、奥保鞏大尉が重傷、西島助義少尉が捕虜となりました。またこの時、憂国党の副島義高は捕虜を殺害しないよう通達を出しましたが、佐賀城からの脱出時に、岩村の命で公金2,000円を携行していた佐賀県権中属の中島脩平に対しては、これを公金横領と看做して処刑を行っています。なおこの敗走中、後の西南戦争で薩軍に包囲された熊本城から脱出に成功し援軍要請を果たした谷村計介が、単身先行し渡船を調達して部隊を窮地から救う功をあげています。この時の戦闘により、被弾した佐賀城鯱の門扉は、現在もそのまま残されています。
【朝日山の戦い】
二日市から原田を経て田代に入った本隊は、2月22日朝日山に向かい、第四大隊と第三砲隊は轟木道から正面へ、第十大隊の半数が山浦から側面に、残る半数が宿村から背後に出て包囲攻撃を行いました。佐賀軍も猛烈に反撃しましたが、すぐに弾薬が枯渇したため支えることが出来ず、中原に敗走し、ここでも敗れて隘路である切通で反撃に出ました。これに対し、第十一大隊は朝日山の本隊に合流しようと筑後川を渡り、千栗・豆津・江見などで佐賀軍を破ったものの、六田で奇襲を受け、永山貞応中尉が戦死するなど大損害を出し筑後川を渡り住吉(久留米市安武町)まで退却しました。その後、夜間再度渡河して千栗に宿営したため、この日の戦力の結集には失敗しました。
【寒津川・田手川の戦い】
翌23日、政府軍は第十大隊を前軍とし、第三砲隊が続行、第四大隊を後軍として中原を出発。前夜合流した前山隊が中原の守備に当たりました。佐賀軍は寒津村(現みやき町)に本陣を置き、寒津川沿いで迎撃、中島鼎蔵の指揮の下左右から挟撃し追い込みましたが、第四大隊が反転して背後を突き、佐賀軍は総崩れとなり敗走しました。しかし、本隊となった第十大隊第二中隊は中隊長阿部正通大尉が戦死し、代わって指揮を取った児玉源太郎大尉も重傷を負うなど被害が大きく、中原に到着した第十一大隊は一個中隊を割いて増援として差し出しました。そのころ、朝日山の陥落を聞いて神埼まで出ていた江藤は寒津でも破れたことを聴くと、馬を田手(現吉野ヶ里町田手)まで走らせて陣頭指揮を執りました。江藤は田手川に防御陣を敷き、一部の精鋭を持って背後を突こうとしましたが、田手川下流を渡河した青山朗大尉率いる第十大隊第四中隊に逆に背後から攻撃を受け敗退しました。さらに官軍が追撃したため、佐賀軍は神埼(現:神埼市)を焼き払い境原(現:神埼市千代田町境原)まで退却しました。この敗退で勝機を失ったと見た江藤は征韓党を解散し、鹿児島県へ逃れて、下野中の西郷隆盛に助力を求めるため戦場を離脱しました。なお、江藤は憂国党には無断で佐賀を離れており、この敵前逃亡ともいえる態度に副島義高ら憂国党の面々は激怒しています。
【境原の戦い】
23日以降官軍も休息をとっており、戦闘は散発的でしたが、27日には総攻撃を開始し、第十大隊および第三砲隊が本隊として姉村に、第四大隊を右翼として城原から川久保に、第十一大隊と第十九大隊一個小隊を左翼として蓮池にそれぞれ進軍しました。佐賀軍が神埼以南の諸橋梁を破壊していたため、架橋しながら戦う第十大隊は苦戦しましたが、砲隊の榴散弾が佐賀軍の保塁に命中したのをきっかけに猛進し、また第十一大隊が後方から攻撃したため挟撃の形となり、佐賀軍を敗走させて境原を奪取しました。江藤らは2月27日には鹿児島に入いりましたが、西郷に決起の意志はなかったため、今度は土佐へ向かい片岡健吉と林有造に挙兵を訴えました。ところが、既にここにも手配書が廻っており、3月29日高知県東洋町甲浦で捕縛されます。島義勇は佐賀で討ち死にするつもりでしたが、実弟の副島義高らが無理矢理脱出させました。島は、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かいましたが、3月7日に捕縛されました。
大正8年、特赦が行われて江藤や島も赦免され、叙任されるとともに、地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に、佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられました。

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