古戦場めぐり「響ケ原の戦い(熊本県宇城市)」
◎『響ケ原の戦い』
戦国時代の肥後(熊本)は、大友・竜造寺・島津の3つの勢力にはさまれて、動揺していました。天正9年(1581)、薩摩の島津義久は出水を本営として、芦北に侵攻しました。八代・芦北・球磨の3郡を支配していた相良義陽(さがらよしひ)が迎え撃ちましたが、あえなく敗れて降伏しました。島津義久は、義陽に対して降伏の証しに、阿蘇氏攻撃の先鋒を務めるよう要求しました。相良氏と阿蘇氏を戦わせることで、双方を消耗させ、同時に肥前の竜造寺氏をけん制しようとしました。義久の命令を受けた義陽は、阿蘇氏を討つために阿蘇氏の重臣で、盟友でもあった御船城主・甲斐宗運(かいそううん)と戦わざるを得なくなってしまいました。宗運の領地に接して、八代葦北を領する義陽とは、互いに不可侵を交わす盟友関係にありました。この戦いは、義陽には武士の信義に反する戦いになりました。義久は、肥後進出の最大の障害、肥後の名門「阿蘇大宮司家」討伐を果たすため、まず阿蘇氏の名将である宗運の守る御船城攻めの先陣を、義陽へ命令しました。義陽は盟友との戦いに気は進みませんでしたが、一族存亡の危機に、軍勢率いて八代(古麓城)発ち、御船城に向かって出陣しました。
天正9年(1581)12月1日、8000の兵を率いて八代を出発した義陽は、守山・小野から入り、同夜は裟婆神峠(豊野と小川の境)に陣を構えました。阿蘇氏の城である、現中央町にあった赤峯尾城、甲佐町の豊内城を攻め、優勢のまま、その翌2日には、さらに陣を響ヶ原に進めて、直ちに堅志田城を攻めました。赤峯尾城・豊内城・堅志田城の戦いでは、先鋒の東左京進の勝報に、敵大将を討ち取ったことが義陽に届き、相良勢は大いに沸きました。二日間の戦いにあげた敵将の首実検を済ませ、義陽はその夜、軍勢の戦勝をねぎらう盛大な酒宴を開きました。陣中は酒盛に沸きました。天気はやがて小雨となり、冬の雨一帯は濃霧に包まれ、相良陣営は見張りの緊張も欠いていました。御船城主の宗運は濃霧に紛れ、旗を巻き、兵を伏せ、間道を伝い川に沿って響ヶ原に至り、ひそか相良軍の側面に出て本陣を急襲しました。酒宴の最中で、まさかの襲撃に不意を突かれた相良陣営は混乱し、為すところを知らず、大将の義陽はじめ、名のある勇将70余人、雑兵200余人を討たれ、多くの戦死を出しました。
もともと守備には不利な、響ヶ原に本陣を敷いたことや、盟友であった宗運を裏切らざるを得なかった苦悩から、義陽は覚悟の戦死であったともいわれています。時に、義陽は38歳の若さでした。義陽の骸はこの場所に葬られ、首は宗運の首実検の後に返され、東駄左門によって八代に運ばれ葬られました。義陽を失った相良氏は、忠房(ただふさ)が後継者になりましたが、八代を追われて人吉に封じ込められました。いっぽう義久は八代まで進出し、肥後を治める前線基地として、弟の島津忠平(のち義弘)を配しました。
○「響ケ原古戦場跡・相良堂」(宇城市豊野町)
豊野中学校の南東方が、「響ケ原古戦場跡」になります。現在、響ヶ原には供養のための「相良堂」(相良神社)が、響ヶ原台地の片隅の木立のなかにひっそりと建てられています。また後年、相良義陽ら戦死者の供養碑が、家臣の手で建てられ、のちに小西氏の南条元宅が補修し、「相良塚」(御船町)とよばれました。なお、相良堂にある石碑には、「言い伝えによれば、合戦の夜(12月2日)に響ヶ原を通ると、馬の蹄(ひづめ)の音や剣戟の響に混じって、戦う人々の叫び声が聞こえるといわれている」と、書かれています。
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