古戦場めぐり「天正天草合戦・仏木坂の戦い(熊本県苓北町)」
◎『天正天草合戦・仏木坂の戦い』
木山弾正(だんじょう)は、豪勇をもって聞こえた武将でしたが、島津の北上によって城を失い、外威の故をもって天草伊豆守に迎えられ、客将として本戸城に身を寄せていました。豊臣秀吉が天下統一をして間もなく、天正17年(1589)、小西行長に肥後南半国が与えられ、宇土に赴任し、天草五人衆に宇土城を建設するように命じますが、これを拒否され、豊臣秀吉に上訴し、加藤清正の応援を得て天草に攻め込みました。この宇土築城をめぐって、天草の諸将は小西行長と対立し、ついに天草攻めとなってしまいました。このとき木山弾正は、天草五人衆の一人・志岐氏の応援のため、兵500を率いて志岐へ向かい、仏木(ぶっき)坂にて加藤清正を迎え討とうとしました。単騎で敵将の加藤清正を求めて敵中深く突入し、一騎打ちを挑み、加藤清正を組み敷き、まさに首級を挙げんとした時、「主君危うし」と、駆けつけた自分の家来の誤った槍にかかり、豪勇とされた木山弾正も、ついに無念の最後を遂げたといわれています。
○「仏木坂古戦場跡」(苓北町志岐)
天草市本町の東向寺付近から苓北(れいほく)町へ抜ける、農面道路のちょうど峠付近に、天正天草合戦の「仏木(ぶっき)坂古戦場跡」があります。木山弾正が、加藤清正に討ち取られたところです。ここには、弾正坂・お京坂と呼ばれる2ヶ所の不思議な坂があります。案内板があるのですぐ分かります。この案内板のところに車を止め(苓北から本渡へ向けて止めると分かりやすい)、ギヤをニュートラルに入れると、車が坂道をそろそろと登り始めるから驚きです。説明板に、次の説明があります。
「古くから志岐と本戸を結ぶ唯一の交通路は、本戸往還といい仏木坂を越えることから仏木坂越えといわれ県道本渡富岡線が開通するまでは、人馬の往来が盛んであった。天正17年(1589)加藤清正が志岐城の志岐麟泉を攻めたとき、清正と麟泉の客将・木山弾正が一騎討ちをして清正が勝ち志岐城を開城させる端緒をつくったという由緒がある。」
【仏木坂伝説】
天正の天草合戦の折のこと、乱戦の中、本戸城の客将・木山弾正は、ひたすら清正を求めてつき進み、ようやく巡り合って、ここ仏木坂での一騎打ちとなりました。片や虎退治で有名な勇将清正、対するは怪力無双の猛将弾正、組んず解れつの戦いは、一刻に及びますがなかなか勝敗がつきません。あたりは、もはや黄昏て視界もきかず、この時、駆けつけた弾正の家臣が「ご主君はいずれに…」と声をかけると、生来、吃りの弾正は返事ができません。咄嗟に答えたのは、組み敷かれている清正のほうで、「弾正は下に…」と。あわれ弾正は、清正に馬乗りになっていながら、家臣の槍で落命したといいます。坂道を降り切った車がひとりでにバックするのは、この弾正の無念の霊魂が呼び戻しているのではないかと、仏木坂にこのような伝説が残っています。
【弾正坂】
木山弾正はもと肥後木山の赤井城々主で、島津氏の侵攻をうけて落城しました。そのあと、縁つづきの天草種元を頼って本戸城の客将となります。のちの天正天草合戦において、ここ仏木坂で加藤清正と一騎打ちを演じますが、家臣の手にかかって無念の討ち死にとなりました。またその一子、横手の五郎は父親ゆずりの怪力無双の勇士でしたが、清正を亡父の仇と狙い、また熊本築城の秘密を知ったが故に、城内の井戸にて謀殺されたと伝えられます。
【お京坂】
お京の方は木山弾正の妻で、仏木坂における夫弾正が戦死の後、清正・行長の連合軍は、弾正の居城本戸城を包囲しますが、その時、お京の方は夫の鎧、兜に身を固めて、娘子軍300余名と共に打って出ます。しかし、梅の小枝に兜をとられて女と判明し、あわれ雑兵の手にかかって落命します。「花は咲けども、実はなるまじ」とは、今に残る本渡市延慶寺「兜梅」の伝説です。
○「木山弾正の墓」(天草市城山公園)
天正の天草合戦で、木山弾正は天草氏の客将として、小西・加藤連合軍と戦い討ち死にしました。その木山弾正の墓は、天草氏の居城・本戸城の城跡にあります。木山弾正の墓の左にあるのは、お京夫人の墓です。また、近くには子孫建立の弾正社があります。天草切支丹館裏に、次の説明があります。
「頃は南北朝、新田左京太夫備後守貞昌、正平12年、征西大将軍懐良親王に従い九州に下向、菊地氏と共に少弐大友と戦い平定後孫左近大夫惟政阿蘇家客将に迎えられ、肥後益城に木山郷を造り木山姓に改名世々城主たり、天文13年、木山城主木山弾正惟久、島津に攻められ落城、弾正は天草種元の外父の故を以て本戸城客将に迎えられた。天正17年、天草合戦に及び本戸城より弾正手勢500を引き連れ、志岐麟仙と加藤清正軍を佛木坂に迎え、清正と一騎打して戦死、長子傳九郎も此時討死、一方本戸城主天草種元留守を預かる弾正の妻お京の方、加藤小西有馬大村の連合軍の総攻撃を受け、種元以下自刃、弾正の妻お京の方娘子軍30余を引き連れ斬り死に、哀れを止めて本戸城の落城となれり。」
○「兜梅」(天草市浜崎町)
天草市浜崎町の延慶寺には、500年は経つといわれる梅の古木があります。「兜梅」と呼ばれ臥龍梅です。ここを訪れた司馬遼太郎は、「街道を行く・17島原半島天草の諸道」(朝日文庫)の中で、この梅の木を絶賛しています。一本の梅の木から縦横に枝が延び、枝張りは東西約11メートル、南北約6メートルあります。主幹の樹高は約3メートル、根回りは約2メートルあり、樹齢約500年といわれます。主幹は朽ちていますが、縦横に走る枝がつぎつぎと先に延びています。一時、枯死寸前でしたが、その後の手入れにより、今では見事な一重の白い花を咲かせています。兜梅と称されるようになったのは、天正天草合戦(天正17年=1589)のとき、本戸城で小西行長、加藤清正連合軍と戦った天草勢の中で、奮戦した騎馬武者の姿をした婦人(加藤清正に討ち取られた木山弾正の妻お京の方)の兜の錣が、この梅の枝にからまり、身動きできずに斬られたことに由来します。
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