古戦場めぐり「沖田畷の戦い(長崎県島原市)」
◎『沖田畷の戦い』
「沖田畷(おきたなわて)の戦い」は、天正12年(1584)3月24日に肥前島原半島(長崎県)で勃発しました。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦です。
肥前の龍造寺氏は、もともと少弐氏の被官でした。龍造寺隆信が家を継ぐと、主家の少弐氏を滅ぼし独立、筑前・筑後・肥後に勢力を伸ばします。天正9年(1581)、北進を目指す島津氏は肥後の相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきました。隆信は、「肥前の熊」と恐れられ残忍非道、その行いは諸将の離反も当然でした。特に柳川蒲池鎮並の謀殺は、周辺諸将には衝撃でした。こうした隆信に、薩摩の島津義久と好を通じ龍造寺離れが顕著となりました。島原半島西の日野江城有馬晴信もその一人でした。島原地方を本貫とする有馬氏は、隆信の軍門に降っていましたが、領地の回復を図るべく、城を固め龍造寺の襲来に備え島津義久に援軍を頼みました。
天正12年(1584)3月18日、これを知った隆信は嫡子政家に有馬討伐を命じましたが、有馬氏は政家の妻の実家ということでもあり、有馬氏討伐は遅々として進みませんでした。これにしびれを切らした隆信は、自ら三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指しました。一方、有馬軍の兵力は約3000で、晴信は島津家に援軍要請を出し、この要請を受けた島津家中では島原への派兵を決定します。派遣軍の総大将には、末弟で島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、精鋭3000が有馬氏救援に派遣されました。とはいえ龍造寺軍の三万に対して、有馬・島津両軍あわせて6000余りの軍勢でしかありません。そこで家久は、有馬方の諸将と協議した上で、戦場場を島原北部の沖田畷とします。沖田畷は左右を沼沢に囲まれた湿地帯で、その中央に左右2・3人並んで通るのがやっとの畦道があるだけの地で、大軍を展開することが困難な場所でした。
これに対して龍造寺隆信は、有馬・島津の主力軍は日野江城にいるものと思い込み、自ら沖田畷の中道へ軍勢を進めました。沖田畷付近で龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、策を秘めた島津軍はたいした抵抗もせず、ずるずると後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道をひたすら進みます。家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認すると、一斉に銃弾を撃ち込みました。思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱となります。龍造寺軍の混乱ぶりを見きわめて、島津軍は一斉に抜刀し三方から龍造寺軍に攻めかかりました。隆信は、進展を見せない合戦に苛立ち、自らが前線に立ち指揮を取ろうとしました。この時、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が隆信に命中、龍造寺隆信はあっけ無く56才の生涯を閉じました。大勢である龍造寺軍は動揺し、鍋島直茂は退却します。
しかしこの合戦において、九州北部に一大勢力を築いた龍造寺は衰退を余儀なくされ、寡勢をもって勢いにのる龍造寺氏の大軍を撃ち破り大将まで討ち取った島津家久の作戦による大勝利になりました。これで島津氏にとって九州制覇への道が大きく開けたのです。島津氏の勝因は、敵より早く布陣し兵を伏せる、島津得意の「伏せ戦法」にありました。
○「沖田畷古戦場の塔」(島原市北門町)
現在、国道251号脇に古戦場への案内板が立ち、細い路地を海側に入ると、右手に両軍の戦死者四千の慰霊弔った「沖田畷古戦場の塔」があります。
【当時の沖田畷】
当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、眉山と森岳城(現島原城)との間にある道も幅が狭く、沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であり、交通の要衝でした。島津・有馬連合軍は、この畷を封鎖するように大木戸を、森岳城には柵を築いて防備を強化し、徹底的に守りを固めて数に勝る龍造寺軍を待ち受けました。結果は、地の利を活かした連合軍有利にすすみました。隆信は逃げ延びようとしましたが、深田に踏み入れて逃げ損ない農家の庭先に乗り入れた、あるいは隆信は肥満体で馬に乗れず輿で逃げていましたが、輿のために余りに目立って討ち取られたといわれています。
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