古戦場めぐり「島原の乱(長崎県島原市)」
◎『島原の乱』
「島原(しまばら)の乱」は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦です。島原におけるキリスト教再興を目的とした一揆で、「島原・天草の乱」「島原・天草一揆」とも呼ばれます。寛永14年(1637)10月25日に勃発、寛永15年(1638)2月28日に終結しています。
九州島原と対岸の天草は、それぞれキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の旧領であったため、キリスト教の信仰が盛んでした。しかし、島原に着任した松倉重政とその後を継いだ勝家は、身分不相応な軍役負担のための重税政策に加え、領内のキリシタンに対しては徹底した弾圧を行いました。さらに、数年前からつづく凶作が農民達の窮乏に追い討ちをかけ、そうした情勢の中、島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎(本名益田四郎時貞)を一揆軍の総大将とし決起することを決めました。
寛永14年(1637)10月25日、追い詰められた農民達はついに南有馬村で代官を殺害して一斉蜂起します。翌26日、450挺の鉄砲で武装した一揆軍1000は島原南方の深江で藩兵300を破り、そのまま島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げました。この時、藩主の松倉勝家は江戸参府中のため不在で、藩兵たちは島原城内へ撤退して籠城します。
さらに数日後、天草でも島原に呼応して一揆が蜂起します。島原からの応援を受けた一揆軍は、11月14日に本渡で唐津藩兵を破り三宅藤兵衛を戦死させると、1万2000に膨れ上がった軍勢で富岡城を包囲しました。しかし、一揆軍は三の丸まで占領したものの富岡城も攻略することが出来ず、天草四郎率いる2700の軍勢が海を渡り島原勢と合流しました。11月9日、ようやく一報が江戸の幕府に届くと、閣老たちは協議を重ねて松倉勝家に帰藩を命じるとともに、上使として板倉重昌、目付として石谷貞清を派遣して、叛徒の鎮圧にあたらせることにしました。
一方、多くの女子供や老人を抱える一揆軍は、全国の浪人とキリシタンによる蜂起や、カトリック国ポルトガルからの援軍を期待して、有馬氏の旧城で当時廃城となっていた原城を修復して籠城することにしました。12月3日には総大将の天草四郎も入城して、戦闘員2万3000、女子供1万4000の計3万7000が集結。城内では小西、有馬の旧臣たちが兵力を配備して迎撃態勢を整えました。
11月10日に江戸を発った板倉重昌らは、12月9日に原城に到着すると松倉・鍋島など3万余りの軍勢で城を包囲しましたが、撃退されてしまいます。
苦戦が続く中、幕府は新たに「知恵伊豆」と称される能史、老中の松平信綱の派遣を決定します。これに焦りを感じた板倉重昌は寛永15年(1638)正月元日、自ら陣頭に立ち再び原城を強襲しますが、板倉重昌も狙撃されて戦死してしまいました。今回も幕府軍の大敗でした。正月4日、島原の陣中に到着した松平信綱はこれまでの方針を改め、力攻めを避けて城中の糧食の尽きるのを待つことにしました。また、幕府が九州の諸大名に出撃を命じたため、幕府軍の動員数は最終的には12万7000以上にまで強化されました。さらに松平信綱は、平戸のオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルに依頼して、オランダ船ライプ号に海上から原城へ砲撃を加えさせました。しかしたいした効果はなく、内乱鎮圧に外国の力を借りることに敵味方から非難をあびたため中止されました。
籠城戦が長引くにつれて原城内の食糧や弾薬が尽きはじめ、2月21日、焦った一揆軍は兵糧や弾薬を奪うために4000の軍勢で、黒田・鍋島・有馬などの陣中に夜襲をかけます。そのさいに討ち死にした城兵の死骸の腹を割き、城内の糧食の欠乏を確認した松平信綱は、ついに強攻策を決断します。27日に開始された総攻撃により、日没頃には原城は内城を残すのみとなり、翌28日の夜明けとともに再開された攻撃によってついに陥落します。2日間の戦闘により幕府軍は戦死者1051、負傷者6743の損害を受け、城内の一揆軍は内通した南蛮絵師・山田右衛門佐ひとりを除いて、幕府軍の攻撃とその後の処刑によって、最終的に籠城した老若男女37,000人は老若男女を問わず全員が死亡しました。
天草四郎の行方は当初不明だったため逃亡したとの噂も流れましたが、母と姉による首実検によって細川家中の陣佐左衛門のとった首がそれと確認されました。一方、松倉勝家は責任を問われ領地没収のうえ配流された美作で打ち首となり、天草領を没収された寺沢堅高も後に気がふれて自殺します。幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶されました。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていったといいます。乱後、幕府はキリシタン禁制を一段と強化するとともに、宣教師を渡航させることを理由にポルトガル船の来航を禁止して鎖国体制を完成させました。
○「島原城跡」(島原市城内)
元和4年(1618)、日野江城は手狭であったので島原城の築城を開始し、寛永元年(1624)に完成しました。別名「森岳城」「高来城」と呼ばれ、江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所でした。成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石でしたが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べ、火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす一因となりました。明治以降は、廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっています。
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