古戦場めぐり「九州征伐・戸次川の戦い(大分県大分市)」
◎『九州征伐・戸次川の戦い』
「戸次川(へつぎがわ)の戦い」は、豊臣秀吉による九州征伐の最中である天正14年(1587)12月12日に、島津家久率いる島津勢と豊臣方の長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた戦いです。この合戦は九州征伐の緒戦で、仙石秀久の無謀な指揮で豊臣方は敗退し、長宗我部信親・十河存保は討死しました。
島津氏が大友氏を耳川で破り、龍造寺氏を沖田畷に降し、ようやく九州の覇者の地位を掴みかけた頃、時代は大きく動いており、戦国時代も終盤に 差し掛かろうとしていました。豊臣秀吉は、島津義久に大友宗麟への攻撃を中止するように命じました。しかし、義久は秀吉の命令を聞かず、 大友への攻撃の手を緩めることはありませんでした。大友氏は島津氏の総攻撃を前にして、秀吉に救援を求めるため上坂します。これを容れた秀吉は、中国の毛利氏へ九州島津征伐への進軍を命令します。毛利軍は四万で筑前方面へ進出しました。
一方、四国勢にも天正14年(1586)10月、秀吉から豊後出陣の命が発せられた。豊臣軍は仙石秀久を四国勢の目付とし、先鋒には十河存保500余人、讃岐の先鋒に大将香西縫之助・北条香川民部少輔・寒川七郎・安富肥後守・佐藤志摩介・羽床弥三郎、その他が秀吉の命を受け戦陣に加わりました。そして、土佐勢の長宗我部元親、その嫡子信親らが出陣しました。
島津軍と四国勢との決戦の場は、豊後戸次川の河原でした。島津軍を前に、戦に馴れた十河存保・長宗我部元親らは、大友勢の到着を待って渡河、あるいは島津軍の渡河を誘って、それを叩く策を秀久に勧めましたが、功にはやる仙石久秀はかれらの意見を無視して、島津軍に攻撃を開始すべく行動を開始しました。豊臣方は淡路勢を先陣に、第二陣の讃岐勢と信親の土佐勢先手、元親の土佐勢主力という陣容で大野川を越えました。豊臣方は、島津勢の前哨部隊を蹴散らして鶴賀城を目指しました。 これに対し、島津家久は急追する淡路勢を見て、反撃のノロシを上げさせました。最初に崩れたのは淡路勢でした。兵力3000ほどの新納隊は、淡路勢に正面から激突しほとんど瞬持にして粉砕し、秀久を遁走させました。しかし、新納隊がつぎに交戦した土佐勢先手は、信親の指揮で頑強に抵抗しました。新納隊は猛反撃に押し返され、一進一退の乱戦となります。これに東に向かっている讃岐勢が方向を転じ、土佐勢の主力も加われば、新納隊は優勢な敵の集中攻撃を浴びることになるはずでした。しかし、そこへ伊集院隊が押し寄せ、土佐勢を前後に分断しました。さらに、山間を迂回した本庄勢が讃岐勢を側撃しました。こうして島津方に包囲された豊臣方は、壊滅的な敗戦を蒙りました。
合戦の最中、十河存保は「今日の合戦は仙石氏の謀略のまずさによるといえども、恥辱は先手にあった将帥にあり、長宗我部信親引き返って勝負を決したまえ。存保加勢申さん」といい遺し、存保は馬に乗って走ります。聞いた信親もともにとって返し敵の中に突入し、壮烈な戦死を遂げました。存保も『南海通記』に、存保いよいよ最後の戦いという時、一子千松丸を秀吉の前に伺候させるよう、家臣に頼み残して敵陣に乗り込んでいきました。そして12月12日、奮戦虚しく島津家久の猛攻の前に戦死します。享年32歳でした。一方、無謀な作戦が裏目に出て豊臣軍の大敗を招いた仙石久秀は、いちはやく戦場から離脱しました。戦後、敗戦の罪で、讃岐を没収されましたが、のちに復活して近世大名として生き残りました。秀久の無謀から始まった合戦に、勇戦戦死した存保・信親らは草葉の蔭でどのような感慨を抱いただろうか。しかし、この合戦に島津氏は勝利したものの、その後の豊臣勢との戦いは敗戦続きとなり、結局、島津氏は軍を薩摩に戻し、豊臣秀吉に降るに至りました。
○「戸次川古戦場跡」(大分市中戸次)
「戸次川の戦い」は、戸次川の河原を舞台に繰広げられた、薩摩島津と豊後大友氏の著名な戦いです。戸次川は、大分県の中南部久住山、祖母傾連山を水源として、竹田市、豊後大野市の流域を下って、別府湾に注ぐ一級河川「大野川」のこと。中世戸次庄を貫流することから、この辺りを「戸次川(へつぎかわ)」と呼びました。豊臣秀吉の命を無視した仙石秀久の強引な渡河が起因して、大友軍は大敗しました。大友義統、仙石秀久は逃亡します。戸次川の戦いで勝利した島津家久でしたが、その後の鶴崎城攻めで女武将「妙林尼」の巧みな謀略により、敗戦し重臣を失います。島津軍は、戸次川に先駆けて攻めた「鶴賀城(利光城)」でも、苦戦多く戦死多数。臼杵城では宗麟の国崩し攻撃うけ、撃退されます。さらに、栂ケ牟礼城攻めも苦戦します。おそらく、家久軍の損害は合せ数千に上ったとみられます。
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