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2016年07月06日06:09

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古戦場めぐり「九州征伐・根白坂の戦い(宮崎県木城町)」

古戦場めぐり「九州征伐・根白坂の戦い(宮崎県木城町)」

◎『九州征伐・根白坂の戦い』
「根白坂(ねじろざか)の戦い」は天正15年(1587)4月17日、日向国根城坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦です。九州征伐の主戦場となり、秀吉の異母弟秀長率いる豊臣方が勝利しました。
関白秀吉率いる20万の軍勢に対し、島津義久は圧倒的な兵力差ゆえ、戦線の縮小を図ります。戸次川の戦いの後、島津家久が占領していた豊後府内城から、家久は後方の松尾城に撤退し、代わって島津義弘が府内城に入って守備を固めます。しかし豊臣秀長率いる豊臣軍により、府内城が攻められるや、圧倒的な兵力・物量の差を悟った義弘は、3月15日の夜半風雨にまぎれて海路で府内城を脱出し、弟の家久が守る松尾城に退却しました。これにより、先の豊後侵攻で島津軍に屈することがなかった、岡城の志賀親次等が勢いづき、島津軍は大友軍の追撃まで受けて、多くの犠牲を出しながら日向まで撤退しました。3月下旬に入ると豊臣秀長が日向に侵攻し、3月29日には日向北部の要衝である松尾城が陥落しました。そして、日向南部の要衝・高城を包囲します。高城を守るのは、島津軍きっての猛将山田有信です。高城の命運尽きる時は、刻一刻と迫っていました。島津義久は高城を救援すべく3万の軍勢をもって、かつての大友・島津決戦の地耳川周辺に着陣します。そして思わず息を飲みます。高城を囲むおびただしい数の人馬の群れ、島津家の敵が一人秀吉のみならず、日本国中の大小名であることをものがたっていました。果たしてこの戦勝ち目はあるのか、義久は狼狽せずにはいられませんでした。義久を驚かせたのは、圧倒的な大軍勢だけではなかった。陣城の普請は素早く、九州では見られない堅固さでした。高城周辺には深い大堀を設け虎落を結び、要所には高い井楼が設けられていました。井楼には大筒がすえられ、さかんに城方を威嚇しました。これらの土木作業は、主に豊臣方の黒田官兵衛孝高、蜂須賀家政等が率先して、短時日の間に仕上げられたものでした。こうした秀吉陣営の土木技術の優秀さが、秀吉の天下取りに大きく貢献したことは間違いありません。黒田官兵衛は知恵が回りすぎ、どこか常人に薄気味悪い印象すら与え、この時も島津方の動きを目ざとく読んでいました。
4月17日深更、島津方はついに動きました。高城への後詰めをまっとうするため、息を殺して根白坂を目指しました。根白坂の陣城の総大将は、宮部継潤でした。これに南条元続、木下重堅等の因幡・伯耆の山陰衆が従います。さらに与力として黒田官兵衛・蜂須賀家政等が控えていました。異変は島津勢が、怒涛のように根白坂の陣城に取りつこうとした時におこりました。突如として数千挺はあろうかという鉄砲隊の弾幕が、一斉に火を噴いたのです。その轟音に根城坂の手前に陣を構える島津義久は驚き、床几から立ち上がりました。この合戦には、かつての島津家の宿敵伊東氏の旧臣も参陣していました。豊臣方の陣城の精巧さと重厚さは、島津方の予想をはるかに超えていました。深い空掘りと高い土塁が、島津勢の前に二重三重に立ちはだかり、さしも薩摩隼人も、その勇猛さを発揮することもできず、銃弾の餌食となりました。深さ三間(約5m)の掘りが、薩摩隼人達の墓場となりました。この味方の劣勢を、義久の陣で歯ぎしりしながら見守る者がいました。歳久の養子島津忠隣でした。ついに我慢の限界に達した忠隣は、手勢数百を率いて本陣を後にしました。むろん軍規に背いての無謀な行動でした。やがて忠隣は、先手衆として押し出していた北郷忠虎の軍勢と合流します。激しい銃火にも怯まず、北郷忠虎と島津忠隣の部隊は、幅三十間(約54m)にわたって柵を引きやぶります。島津勢は分厚い板を貫く桐のように突撃を開始し、三の丸を破り、たちまち二の丸に攻めよせました。ですが、攻勢もここまでした。豊臣方の新手の部隊として、藤堂高虎等が攻め寄せてくると、さしもの島津勢も次第に意気消沈し始めます。とその時、忠虎の視界が銃を構える敵方の足軽数名をとらえた。同時に鈍い音がした。銃弾数発が一斉に忠隣に命中したのです。一度は立ち上がった忠隣でしたが、そこにどどめの銃弾が降りそそぎました。忠隣が絶息したのは、ほどなくのことでした。味方の劣勢にいらだっていたのは、忠隣だけではありませんでした。島津義弘は、敵の銃口の前に次から次へと倒れていく味方に、無念のあまり鬼の形相と化していました。義弘は自ら軍勢の先頭に立ち、突撃を開始します。銃弾が数発貫通しましたが、義弘はひるむことはありませんでした。だがその義弘をもってしても、敵の堅固な陣城をぬくことはできませんでした。
夜が明けました。島津はついに敗れました。おり重なるようにして倒れ、おびただしい数の戦死者を残して、軍を退くに至ったのです。かつて九州における陣で、いかな圧倒的大軍を前にしても、敗北を知らなかった薩摩隼人は、豊臣軍の物量の前に敗北したのです。この敗北からわずか3日後、秀吉自ら率いる本隊は、ついに肥後隈本城へ入城します。今や島津家存亡の時は、刻一刻と迫っていました。

○「根白坂古戦場跡」(木城町陣ノ内)
「根白坂古戦場跡」は、木城町から西都市へ向かう旧道として、茶臼原台地に上る椎木坂(しいのきざか)の頂上付近に位置するといわれています。この周囲の小字名は陣ノ内と呼ばれ、いかにも戦国時代の陣跡を連想させる地名です。この台地の頂上は、今は畑や牧草地となっていますが、平坦な地形は大部隊が展開できる十分な広さを持っています。根白坂古戦場は天正15年(1587)、大友氏が援護を求めた、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が率いる軍勢が、名将山田新介守る高城城包囲作戦にあたり、夜襲を得意とする薩摩軍の応援部隊に対処するため、大掛かりな砦を築いたところといわれています。

○「高城跡(城山公園)」(木城町高城)
「高城跡」は、標高60mの高台にある戦国時代の城跡です。本丸のあった場所は城山公園となっており、城を模したメロディ時計台からは町の中心部を一望できます。公園には桜が植栽されており、4月には「城山花まつり」が開催されます。この城跡には、本丸の建物等は現存していませんが、空堀や土塁が当時のまま残されており、過去2回の大戦(高城川合戦、豊臣秀吉による九州征伐)でも落城しなかった「不落の山城」としての威容を保っています。根白坂の戦いでは、山田有信以下300、寄騎を合わせて1500程度の兵で拠っていました。

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