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2016年07月05日22:04

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古戦場めぐり「耳川の戦い(宮崎県木城町)」

古戦場めぐり「耳川の戦い(宮崎県木城町)」

◎『耳川の戦い』
「耳川(みみかわ)の戦い」は、天正6年(1578)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦で、「高城川の戦い」「高城川原の戦い」ともいいます。
天正6年(1578)夏、大友宗麟は伊東義佑支援と日向にキリシタン王国を建設するという妄想にかられ、家臣らの諌めを聞かず日向侵攻を決め、5万の大軍を率いて自ら出陣します。この頃、日向を平定した島津義久は、北部の要である高城に重臣山田有信を配置、南部の佐土原城には島津家久を置いています。しかし、宗麟は縣(延岡)までで現地には向かわず、総大将には田原紹忍を命じました。天正6年(1578)11月12日、大友軍は高城の向いの台地「宗麟原(カンカン原)」に大軍を展開します。しかし、高城への攻撃を始めますが、やたらと日数が経過するだけで高城は落せません。やがて、島津主力支援隊が小丸川対岸に集結します。
当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していましたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、また、大友軍は追撃により陣形が長く伸びきっており、島津軍が得意とする誘い戦法「野伏せ」により、深追いした大友軍の横を衝きます。これによって戦況は一転し、大友軍は敗走します。追い詰められた大友方は、数日来の大雨のため増水した耳川で多数の将兵が水死。ここから「耳川の戦い」と通称されます。追っ手に追撃され大友軍は多くの戦死者を出し、その数4000とも2万ともいわれます。持参したとされる「國崩し(大砲)」も、役にはたたなかったといいます。大友軍敗戦の責任者・田原紹忍は敗走し、責任を回避し行方をくらましてしまいます。この戦の結末は、戦いの重要性を認識した島津義久兄弟の結束した戦いに対し、戦場に赴かず遥か無鹿でひたすら信仰に明け暮れ、高見の見物を決め込んだ、宗麟の武将としての資質の違いにあったといいます。島津氏は一連の戦いによって九州内に拮抗する敵はなくなり、九州南部(薩摩・大隅・日向)の支配を確固たるものとしました。島津氏はこの大勝利後、大友氏の後ろ盾を失った球磨の相良氏を降伏させ、肥後の阿蘇氏また肥前の龍造寺氏を「沖田畷の戦い」で下したため、九州内の国人達は次々と島津方になびき始めます。さらに大友氏の本拠地豊後へ侵攻を開始し、一時は現在の大分市まで迫ります。しかし、宗麟の要請をうけた豊臣秀吉の介入によって退却を余儀なくされ、遂に秀吉に恭順することになりました。

○「高城 (耳川)古戦場」(宮崎県木城町)
「高城」(たかじょう)は、現在の宮崎県児湯郡木城町にあった山城で、高城川の戦い(耳川の戦い)の主戦場となった城です。北の谷瀬戸川(現切原川)、南の高城川(現小丸川)に挟まれた、岩戸原の標高60mほどの台地の縁辺に建てられ、北側、東側、南側は絶壁で、唯一平地に繋がっている西側には7つもの空掘を設けてあり、本丸と二の丸がありました。高城跡に、合戦伝える石碑があります。

○「宗麟原供養塔」(宮崎県川南町)
川南町にある「宗麟原(そうりんばる)供養塔」は、天正6年(1578)11月12日に、島津氏・大友氏と間で繰り広げられた九州争覇戦である「高城合戦(耳川の戦い)」の戦没者を、合戦後、島津義久が高城主・山田新介有信に命じ、敵味方の別なく供養する目的で建立された六地蔵塔です。天正13年(1585)2月、彼岸七回忌の施餓鬼の際に建立(銘文より)。建立の経費は、全て島津方武将・山田有信の負担したものです。供養塔の背後の「供養塚」は、80尺四方が板塀で囲まれ、南側に溝で囲まれた40尺四方の祭場が付属していたことが確認されています。

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