古戦場めぐり「木崎原の戦い(宮崎県えびの市)」
◎『木崎原の戦い』
「木崎原(きざきばる)の戦い」は、元亀3年(1572)5月、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において、伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた、南九州の歴史が動いた合戦です。大軍(3,000という説が有力)を擁していた伊東側が、少数の兵力(300)しか持っていなかった島津側に敗北したことから、「九州の桶狭間」とも呼ばれています。ただし実際の桶狭間の戦いとは違い、島津軍は将兵の85%以上が討死したという全滅というべき大損害を被っています。
元亀2年(1571)8月、伊東氏は大軍を三之山城(小林市)に集め飯野桶ケ平に陣を張り、数度の小競り合いがありました。元亀3年(1572)5月、伊東軍は加久藤城を目指し三之山城を進発しました。その軍勢は、伊東加賀守以下3000といわれます。一方、飯野城を守る島津義弘軍は300であったといいます。伊東軍は、飯野城を北に見て白鳥山麓を通り加久藤城下に押し寄せました。その頃、わずか300足らずの手勢で飯野城を出撃した義弘は、本地口の守備に50を割き、主力の230を率いて加久藤城に向かっていました。二八坂に進出した義弘はさらに兵を分け、60人に飯野川北岸を先発させ、40人を白鳥山麓の野間門に伏せました。一方、島津軍の後詰の動きを察知した伊東勢は、白鳥山方面への撤退を開始しました。ところが、その撤退路を白鳥権現の氏子300余人が鉦を打ち鳴らし、喚声をあげて迫りました。これを伏兵と見誤った伊東勢は、方向を転じて山を下りはじめたところで、二八坂から南下してきた義弘勢の主力130と鉢合せしました。義弘は味方の集結まで伊東勢を足止めするため、無謀にも十数倍の伊東勢に襲いかかり敗走しました。逃げ崩れる義弘勢を追って木崎原に押し出した伊東勢を待ち受けていたのは、想像を絶する光景でした。川内川の向こうの三角田まで後退した義弘は、そこで素早く手勢を立て直し反撃に転じたのです。この義弘勢の素早い立ち直りを予想もしていなかった伊東勢は、この逆襲で混乱したところへ四方から島津軍に襲いかかられ、四分五裂となって逃げ崩れました。伊東勢は大将伊東加賀守ら多数の将兵を失って壊滅、島津義弘の大勝利でした。
この戦いで、伊東一門の大将5人をはじめ奉行や各外城の地頭ら250人を失い、その影響は深刻で伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなりました。なお、木崎原の戦いとは島津側の呼び方で、伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれています。
○「激戦地の三角田」(えびの市三角田)
えびの市三角田は、木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで、島津義弘が伊東の将・伊東進次郎を槍で突き伏せ、また、敵中深く進みすぎた島津義弘を退かせるために盾となって、久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨の6重臣が討死した場所です。
【六地蔵塔】
「六地蔵塔」は、樹齢400年以上の杉に囲まれています。木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・見方双方の戦死者の霊を供養しました。島津氏は、大きな戦いの跡地には殆ど六地蔵塔を建立して供養しています。
○「元巣塚」(小林市)
小林市にある「元巣塚」は、合戦後、伊東氏の霊を恐れた地元民のため、地頭の伊集院肥前入道元巣が慶長18年(1613)に供養した塚です。
○「鳥越城跡」(えびの市池島)
「鳥越城跡」は、木崎原合戦記念碑の南約0.5kmにあたり、元亀3年(1572)伊東氏の出城で伊東方が本陣をしいたところです。現在も土塁が残っています。島津勢の奇襲を受け混乱し、鳥越城にいた伊東勢の大将格伊東叉次郎・落合源左衛門が士卒を率いて、島津義弘に小勢に切りかかったといいます。
【首塚】
伊東方の戦死者の首を埋葬した塚。伊東方の戦死者のうち、名だたる将及び宗徒の首を小林の三之山城へ送り返し、その首は伊東塚(小林市)へ葬られました。その他の首は、この地に埋められ供養されています。
【太刀洗川】
島津方の将兵が、戦いで血に染まった刀を洗ったとされる小川です。
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