古戦場めぐり「薩英戦争(鹿児島県鹿児島市)」
◎『薩英戦争』
「薩英戦争」(さつえいせんそう)は、文久2年(1862)8月21日に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と、日本の鹿児島(薩摩)藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘です。戦争期間は、文久3年(1863)7月2日 から 7月4日までの3日間。鹿児島では、城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていたため、「まえんはまいっさ」(前の浜戦)と呼ばれています。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩に接近する契機となりました。
イギリス代理公使 E.ニールは、幕府に対して生麦事件の責任者処罰および 10万ポンドの賠償を請求しましたが、統治力の衰退した幕府は、賠償金を支払ったのみで犯人の引渡しを拒否する薩摩藩を従わせることができず、事件の解決は引延ばされました。イギリスは本国の指示で、交渉相手を薩摩藩に切り替えます。つまり、イギリス政府は幕府を日本の政府として認めることをやめたのです。そして、横浜に停泊していた世界最強の英国艦隊は鹿児島に向かいました。
英国艦隊が鹿児島入りすると、対薩交渉が始まりました。英国の主張は「賠償金と犯人の処刑」でした。これに対して薩摩の主張は「薩摩は国法を遵守したまでである」というままで、両者の議論は平行線でした。緊迫したムードが錦江湾をおおう中、ついに英国艦隊が動きました。そして、宣戦布告もないままに停泊していた薩摩の汽船、天佑丸(英製)、青鷹丸(独製)、白鳳丸(米製)の3隻を拿捕しました。ここで、寺島宗則と五代友厚の2名は乗組員を安全に下船させることを条件に人質となりました。どうやら、彼らは旗艦を爆破し、英国の提督と差し違える覚悟だったようです。このような形で開戦し、はじめのうちは薩摩の海岸沿いの大砲が威力を発揮しましたが、英国艦隊が大砲の射程外に出ると、艦砲により磯の工業地帯を壊滅させました。
薩英戦争の時は、どうやら台風が近づいていたようです。また、英国艦隊もはじめから戦争をするつもりではなかったようで、資材も食料もそれほど積んでいなかったのです。ここで、英国軍は人質にした寺島と五代に「上陸して戦闘した場合に、勝ち目があるか」を尋ねたところ、薩摩人の勇敢さについてとくと語られ、横浜に帰ることになりました。拿捕した3隻の戦艦は足手まといになり、沈めてしまいました。
薩摩には、英国と引き続き交戦すべきだという意見もありましたが、結局、磯の工業地帯を壊滅させられたという事態を重くみて、英国と講和することになりました。生麦事件の犯人捜査に全力を尽くすことと、賠償金を支払うことを約束しました。賠償金は幕府が立て替えたのですが、数年後に明治維新になり、どうやら、薩摩は幕府にこのお金を返さずじまいだったようです。
英国艦隊が横浜に着いたときに、人質となっていた寺島と五代は釈放されました。しかし、二人はこの時、英国と内通したとみなされ、幕府と薩摩の両方から指名手配されます。つまり、スパイ容疑をかけられたのです。寺島は武蔵の羽生村に五代は長崎のグラバーのところに落ち延びました。しかし、薩摩内に二人に同情的な意見が多く、しばらくして二人は免罪されました。この時、五代は藩あてに注進書を書きます。英国と薩摩の国力の差は計り知れない、そしてそれを見習うために留学生を派遣すべきである、と。そして、この計画は実現し、19名の留学生を幕府に秘密で英国に派遣しました。
○「生麦事件」(川崎市)
文久2年(1862)8月21日、生麦事件が発生しました。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を、薩摩藩士・奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷しました。死者が1名、負傷者が2名。
【駐日英国公使ジョン・ニール】
初代の駐日英国公使であるオールコックが賜暇で帰国したため、1862年5月27日に代理公使として日本に着任しました。当時英国公使館は、第一次東禅寺事件の影響で横浜に移っていましたが、着任後直ちに公使館を江戸に戻しました。しかし6月26日、公使館警備の松本藩士伊藤軍兵衛による襲撃事件(第二次東禅寺事件)が発生し、結局は公使館を横浜に移しました。さらに9月14日、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)が発生しました。横浜領事ヴァイス(Francis Howard Vyse)や横浜居留のイギリス民間人らは報復行動を訴えましたが、ニールはこれを抑えました。その後、本国との連携を保ちながら冷静に対処し、江戸幕府に11万ポンド(生麦事件に対して10万ポンド、第二次東禅寺事件に対して1万ポンド)の償金を支払わせることに成功しました。翌1863年の薩英戦争では、自ら軍艦に乗船して砲撃に参加しました。1864年にオールコックが公使に帰任すると、イギリスへ帰国しました。
○「薩英戦争の天保山砲台跡」(鹿児島市天保山町)
天保山は天保12年(1841)ころ、甲突川下流の出水を防ぐため、河床を浚い、その土砂で埋め立てられたところです。嘉永3年(1850)には砲台が築かれ、薩英戦争で砲撃の火ぶたがきられたのはここでした。台場公園の砲台跡に行く途中に、石の手洗い鉢があります。1852年に島津斉彬が大隅、日向の砲台等を視察した際にここで休憩し、この手洗い鉢を使用したそうです。錦江湾沿岸に数十の砲台が構築されたそうですが、当時の砲台跡の原型をとどめているのはここだけだそうです。もちろん砲は再現したものですが、みかげ石の石垣や砲身を構えた凹部は当時のもののようです。砲身の先から海の向こうを見ると、開聞岳が見えていました。
【薩摩藩士・五代友厚】
「五代友厚」(ごだいともあつ)は、最近NHK朝ドラ「朝がきた」で有名になりました薩摩藩士で明治の実業家です。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)に生まれ、明治になり大阪経済界の重鎮の一人として活躍します。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図りました。
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