古戦場めぐり「西南戦争・城山籠城戦(鹿児島県鹿児島市)」
◎『西南戦争・城山籠城戦』
「西南戦争」または「西南の役」は、明治10年に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも、最大規模のもので、2016年現在日本国内で最後の内戦です。
明治10年9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り城山を占拠しました。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制しましたが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させました。 9月19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍・川村純義のもとに出向き、捕らえられました。 9月22日、西郷は城山決死の檄を出します。 9月23日、西郷は山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍・山縣有朋からの自決を勧める書簡を読みましたが、返事を出しませんでした。
9月24日午前4時、政府軍の城山総攻撃が始まりました。 西郷隆盛と桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃を開始しました。まず国分寿介が剣に伏して自刃し、桂久武が被弾して倒れると、弾丸に倒れる者が続きました。そして、島津応吉久能邸門前で西郷隆盛もついに被弾してしまいます。 西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」とつぶやきます。そして、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しました。遙拝が終わると、別府は「ごめんやったもんせ(お許しください)」と叫んで、西郷を介錯しました。西郷の首は、政府軍に見つかるのを恐れて、折田正助邸門前に埋められました。西郷の死を見届けると、残りの将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死しました。午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降りました。武士の世の終焉を告げ、幕末からこれまでに流された多くの血を洗い流すかのように降り続きました。
西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及びました。この戦争では、多数の負傷者を救護するために博愛社(日本赤十字社の前身)が活躍しました。また、特に顕彰されたわけではありませんが、類似した例に熊本の医師・鳩野宗巴が、薩軍から負傷兵の治療を強要された際に、敵味方なく治療することを主張し、これを薩軍から認められ実施したことが挙げられます。
○「城山展望台」(鹿児島市)
九州各地を転戦した薩摩軍が立て篭もった鹿児島城下の城山。展望台からは、桜島をはじめ錦江湾と鹿児島市街地を一望できます。
【明治十年戦役薩軍本営跡】
展望台の駐車場脇の階段を上ると、大正時代に正午の時報を伝えた大砲を設置したという「ドン広場」があります。ドン広場の西端から鬱蒼とした木々の間が僅かに開けた細い道を登っていくと、石碑らしいものがあり「明治十年戦役薩軍本営跡」と刻んであります。1万人以上を率いて鹿児島で挙兵してから7ヶ月。わずか300余りの兵とともに故郷に戻った薩摩軍は、鶴丸城下の城山に立て籠もり、政府軍の総攻撃を受けるまで、ここを本営としました。
【西郷隆盛洞窟資料館・せごどん】
城山展望台からつづら折りの車道を下ると、「西郷隆盛の像」が突如現れます。その脇にある洞窟に、「目で見る西南戦争始末記 三十六景展示場」とあります。中に入ると、奥にガラスのショーケースを設置してあり、西南戦争の様子を描いた色紙を並べて展示しています。ここは、土産物店が作った私設の資料館で、無料開放されています。
【西郷隆盛洞窟跡】
資料館のすぐ下に、西南戦争最後の薩摩軍の司令部として使われたと伝えられる「西郷隆盛洞窟跡」と「南洲翁洞中記念碑」があります。西郷や幹部は山頂の本営を降りると、政府軍の総攻撃直前までの5日間をここで過ごしました。城山に立て篭る薩摩軍兵士は、わずか300余。これに対し何重もの柵を巡らして城山を包囲した政府軍は4万を数えたそうです。薩摩軍の陣地が攻め落とされると、西郷らはこの洞窟を出て岩崎谷に進みました。
【西郷隆盛終焉の地】
城山の洞窟を出て300m、岩崎谷の出口近くにさしかかった時、腰と太腿に2発の銃弾を受けた西郷は、別府晋介の介錯によって、波乱に富んだ50年の生涯を終えます。実際の場所は、終焉の地碑が立つこの場所よりも西側になるそうです。西郷の死体が発見された時、政府軍を指揮した山県有朋は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷をしたそうです。
【私学校跡】
国立病院機構鹿児島県医療センターが「私学校跡」になります。政争に敗れて下野した西郷隆盛は、自分を慕う鹿児島の士族たちのために、県令・大山綱良の協力を得て、鶴丸城の厩跡に私学校を創設しました。門の横に、「西郷南洲設立私学校跡」の石碑が建っています。私学校は年々強大化し、反政府の機運を高まらせ、過激派生徒が暴走。政府が管理している火薬庫を襲撃します。これを聞いた西郷は「おはんら何たることをしでかしたか」と、一言漏らしたと伝えられています。私学校跡の石垣には、西南戦争の時に政府軍が打ち込んだ残る弾痕の数が無数に残り、政府軍との銃撃戦の激しさを今に伝えています。
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