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2016年04月10日14:12

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ジャンボ鶴田怪物伝説(260)

新日本プロレスとの興行戦争はこのシリーズでは札幌中島体育センターで全日本が6月1日(馬場vsスタン・ハンセン、大仁田vsジェイ・ヤングブラッドNWAインター・ジュニア戦)が9100人(超満員)、新日本が6月25日(猪木、ハルク・ホーガン組vsアンドレ・ザ・ジャイアント、カネック組)が6300人(満員)発表で全日本の方は大幅な水増しがありましたが、ハンセン効果で全日本の圧勝。

蔵前国技館では全日本が6月8日(馬場vsタイガー・ジェット・シンPWF戦、リック・フレアーvs鶴田NWA世界戦、ハイフライヤーズvsリッキー・スティムボート、大仁田組AWA世界タッグ戦)9800人(満員)、新日本が6月18日(猪木vsスコット・マギー、アンドレvsホーガン、タイガーマスクvsウルトラマンWWFジュニア戦、藤波vsカネック飛龍十番勝負第4戦)10800人(満員)発表。

蔵前は1階舛席の埋まり具合が新日本が上回り、2階席はほぼ互角で僅差で新日本の勝利と言えました。

シリーズ最終戦は6月10日、堺市金岡体育館大会、メインイベントは馬場、天龍、阿修羅・原組vsシン、上田馬之助、クルト・フォン・ヘス組で馬場がヘスを16文キックから片エビ固め。

ハンセンはプリンス・トンガをラリアットから体固め。

鶴田はマイティ井上と組んでグレッグ・ガニア、ジム・ブランゼル組のザ・ハイフライヤーズと両チームリングアウトの引き分けに終わりました。

また、特筆すべきは若手の越中詩郎、三沢光晴組がリッキー、ヤングブラッド組と6月7日、福島市体育館大会に次いで2度目の対戦、ヤングブラッドが三沢を体固めに降しています。

松根光雄社長から現場監督を任されたマッチメーカーの佐藤昭雄はノンキャリアの「入門組」若手にもチャンスを与えていきました。

シリーズ終了後馬場はアメリカに遠征し6月17日にテキサス州アマリロ・シビックセンターの大会に出場、ブルーザー・ブロディの持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。

かつての日本プロレス時代の自らの代名詞であったインターナショナルのタイトル戦を馬場が行うのは72年6月1日、大阪府立体育会館でのジョニー・バレンタイン戦(2-1で馬場の防衛)以来実に10年ぶり。このバレンタイン戦はNETテレビで放送されました。

この直後の7月29日、馬場は日本プロレスからの独立を表明する記者会見を行っており、当初は馬場もインターのベルトは持って出ていく、と言っていましたが、

日本プロレスの芳の里社長は「インターナショナルの王座はNWAの認可のもと、我々日本プロレスが管理、運営している王座、馬場がもしベルトを持って出ていきたいのであれば大木金太郎と戦って勝って持って行け」と反論。

9月6日、田園コロシアムで決戦の舞台を用意すると発表、この試合で大木がセメントマッチを仕掛けるという憶測が飛び交い、馬場はこれを回避してインターのベルトを返上しています。

ならばと力道山家(百田家)より力道山が所持していた初代インターベルトを寄贈してもらい、世界ヘビー級選手権として王座を新設。

10月に旗揚げした全日本のリングで10試合に亘る王座争奪戦を行い8勝2分の成績で馬場は力道山ベルトを獲得。

73年3月にハワイのホノルルを本部に設立されたPWF(太平洋沿岸レスリング同盟)の認定する初代世界ヘビー級王者となりました。

力道山の身体のサイズに合わせて作られた初代インターベルトは馬場の胴廻りには小さく、直ぐに同ベルトをモチーフとした黒革の台座に赤の縁取りを施した新しいベルトに変更されています。

「世界」の2字は73年2月に年次総会を待たずに加盟が認められたNWAへの慣習に従い、同年一杯で削除しました。

しかし、馬場はインターのベルトを諦めた訳ではなく、大木が「力道山先生の形見」と後生大事に保持していたものを、資金力と政治力を駆使して81年4月に9年ぶりに執念で自分の手元に取り戻しました。

ただし選手としては既に44歳であり、PWFとインターナショナル・タッグの2冠王だった馬場は執着は見せず、日本テレビの顔色を伺ってかドリー・ファンク・ジュニア、ブルーザー・ブロディと言った外国人をリリーフとしてはいずれは愛弟子、鶴田へと考えていたと思われます。

馬場のブロディへの挑戦は日本ではなく、アメリカで日本テレビの中継もなくひっそりと行われ、12分32秒、両者リングアウトの引き分け。ブロディは初防衛に成功しました。

この試合は馬場のインター王座に対してのケジメマッチではなかったかと思います。

この日はその他、フレアーがテッド・デビアスを首固めに破りNWA世界ヘビー級王座を防衛。

新日本に移籍したアブドーラ・ザ・ブッチャーがテリー・ファンクとシングルで対戦し両者反則となっています。

この時、馬場とブッチャーがバックステージで顔を合わせていた筈ですがどんな会話がされていたのでしょうか?

余談ですが、この時期、馬場がテレビのCMに起用されることが多くなりました。

これまで全日本旗揚げ以来、団体経営に専念していた為か馬場のCM出演はほとんどなく、創立10周年を契機にそのユニークなキャラクターが買われCM出演が増加。

前年81年には尾藤イサオとの共演で煙草の「ジョイ」(日本専売公社)、82年には麦茶「ジャーミー」(ハウス食品工業)、「僕にも弾けた」でお馴染みのヤマハマイバンド等。

プロレス出版物でも80年7月に上梓された村松友視の「私、プロレスの味方です」(情報センター出版局)、続編の「当然、プロレスの味方です」、「ダーティ・ヒロイズム宣言」の3部作は猪木寄りであり、この出版を契機に文化人と言われた人々が猪木を持ち上げました。

この年以降、栃内良の「馬場派プロレス宣言」、「ジャイアント馬場と勝手に連帯する本」等馬場を擁護する書物も発売され、一定の支持率を得ていました。
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