真田信繁の真田丸。
信繁はこれまで幸村として知られてきたが、これは文芸など創作世界で信繁の死後に創作された名であった。
さて 大阪冬の陣で、信繁は大坂籠城では勝機をつかめないことを見抜き、惣構えから南へ突出した真田丸を築き、徳川軍は1万人を超える死傷者を出して撤収した。
信繁は豊臣軍として唯一の完全な勝利を収めた。
その真田丸は三日月形の馬出しと言われていたが、「摂津真田丸絵図」を再検討してみると地形を生かした巨大な不等辺四角形で、一個の独立した城であった。
そしてその正確な位置は大阪明星学園を中心とした一帯で、いくつかの堀の痕跡は今日の敷地区画や道路として残っていて、
「真田の抜け穴跡」があり幸村像の置かれている三光神社は城外であった。
奈文研などによる真田丸周辺の大規模な地中レーダー探査の結果、航空写真や絵図から推測していた位置の地中に巨大な真田丸の位置と大きさが解明できた。
本当の真田丸は、大坂城下町との間に幅200mにも及んだ巨大な自然の谷を挟んで孤立的な場所にあった一つの出城であった。
文藝春秋 千田嘉博の「本当の真田丸を探して」より
28日の大阪シテイウォークではこのあたりも歩くのだろうか?
それにしても、奈良の女大臣には?
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