「アンチ巨人」は死語? 「くたばれ讀賣」禁止運動も
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=3839913
記事そのものはおそらく「アンチより」の人が書いているから、
でたらめだらけなんだけど、
*ポストの性格上「わざと」偏狭な立場を示すことによって、
面白おかしく「火病の人たち」を煽りたいということはある。
だから「おそらく」
それでも、いわゆる「アンチという愚劣な人間」は確かに減っているように思える。
理由?
「恥ずかしいから」
アンチの基本は、犯罪者の集団心理みたいなもので、
「全員が嘘をつく」「全員が物を盗む」「全員が暴力を振るう」のであれば、
おもしろおかしくやれるけれど、
もともとがチキンでカスであることを半分自覚しているから、
集団から離反者が出たり、
世間の風当たりがきつくなると自分の卑劣な立場を維持できなくなる。
「珍走団が自然消滅していく」ようなものだ。
それでもアンチが正しいと妄想を抱くものは、
大陸や半島の火病人種よろしく、
「世界が自分の思い通りにならないのは」→虚塵のせいだ!
と喚いていればゴミのようなアイデンティティが満足できるというわけだ。
それさえも、
「仲間がいるうちは」まだいいけれど、
ネットのカス板でもない限り好き放題に行って気分良くなれる場所は減ってきた。
当然だが、「アンチ自体一般評価が低い」
これが最大の問題だと。
例えば、悪名高い「大阪の阪神ファン」は、
当然ながら「関西にもいるまともな阪神ファン」から徐々に反撃されている。
これまでは珍走団よろしく、
「なんやわれえ虚塵の回しもんかあ?」といって暴れていれば制御できたが、
今はそれでは無理だ。
ミスタータイガース掛布雅之が「阪神の応援団は大嫌い許せない」と発言したり、
江夏豊が「蛍の光のような愚劣な行為はやめろ」と指摘したり、
「選手や球団をリスペクトできないアンチ体質」
そのものを、攻撃しだした。
純粋に、スポーツや球団、プレイヤーを愛することと、
「タダ憎しみや暴力をはけ口にしたいだけ」のアンチ体質は異質のもので、
「そういうファンは不要」
という風潮が強くなったためである。
いわゆるアンチの言うことには、全く正統な根拠が無い。
このあたりも、
「なんでもかんでも日本が悪い」と言えば気持ちがいい半島人と酷似している。
それでいて、自分の中では根拠があると思い込み、
でたらめな独りよがりの妄想だけをたくましくしている。
「アンチとはそういうものだ」
アンチに根拠なんかほんとうは存在しない。
一部大阪ローカルが、東京に対し敵対心を持つように、
「優秀な者に対しての劣等感を正当化する」言い訳でしかない。
ただ嫌いなだけ。
アンチ北の湖。
アンチバルセロナ。
アンチヤンキース。
アンチ読売。
ほぼ同列である。
あとはその都度勝手に、まさしく自分の方にだけ都合よく「適当に持ってきて」
だからこれでいいんだ!オレは正しいんだ!と正当化しているだけである。
そしてその「幼さ」が、共感者の減少によっていたたまれなくなるのである。
もはや、仲間のいないところでアンチを叫ぶバカはほとんどいない。
いまさら「ヘイトスピーチ」をすることに意味は無いのだ。
「アンチは恥ずかしい」
という正しい風潮と自覚が醸成されてきた。
*それでも日本はオウム真理教関係など、
「アンチといえば」許されるものがまだ多々存在している。
アンチ読売はまだ生き残っていけるレベルではある。
マジョリティとしては通用しないだろうがね。
>アンチ巨人は巨人のことに詳しかった。(中略)穴が開くほど見つめなければ捉え切れない特徴をつかんでいる。
失笑レベルの妄想。
アンチが詳しいのは悪口とスキャンダルと、その他「口にして楽しめるネタ」だけ。
真実であるとかないとかは一切関係がない。
野球のことなんか全く知らないし、興味もない。
右か左かさえわかっていないことが多い。
アンチが知っているのは「ドームランとジャンパイアは事実である」という虚構だけ。
>下位のバッターにホームランを打たれるたびに「出たぁ、エガワの手抜きだぁ」と喜べるのは江川のピッチングを熟知しているからだし
つまりこのライターも「アンチ並みにわかっていない」ということだ。
現実問題として、江川がどれくらい「下位に打たれたか」理解していないということ。
もちろん誰だって打たれる。
ただそれだけのことで、「何の根拠もなく」悪口を言いたかっただけ。
>チャンスで凡退した原の打球を見上げて、「よっしゃあ、またまた内野フライだぁ」と叫べるのも、原の打席を見続けているからだ
見てない見てない。
凡退した打球なんて普通だし、原の凡打が特に内野フライなのではない。
ゴロも外野フライもいっぱい打っている。
アウトだと思った瞬間「またなんとか!」と言えばいいだけのこと。
>〈今、そういう人は激減している。同時に野球に対して、そして巨人に対して無関心な人が増えてしまった〉
これは半分正しい。
「アンチ」という火病祭りが楽しめない風潮になってきて、
そもそも「野球にも虚塵にも本質的には興味がなかった」人間が離れただけ。
アンチの知っていたのはどこまでいっても、悪口のネタなのであり、
グラウンドを見ている必要がない。
西の方の球団の応援は未だに汚いし、
東京ヤクルトも似たようなもの。
そこにも今、ゆるやかではあるが自浄努力が働き出している。
それによって、アンチは居場所が減っているのだ。
アンチが楽しめる、アンチのためのアンチワンダーランドは、
自然淘汰されてきているのである。
>漫画家のやくみつる氏がこう語る。
>「確かに巨人は絶対強者じゃなくなりました。でも、昔のようなアンチ巨人の火を消してはいけません。連中は何をしでかすかわからないから、監視の目を怠ってはいけない。常に悪いたくらみをしているのが巨人ですからね」
これ、やくみつるの場合「本気」のような気がするんだよね。
この人、わりとマジでこういうこと言うもんな。
アンチ朝青龍からアンチ白鵬になった今、この人の「愛とはいえない」歪んだ感情は、
たぶんこういう妄想に起因している気がする。
>ところが今は、三振した選手を“次は頑張れ”と慰め、ノックアウトされた投手でも拍手で迎えるファンが増えている。選手に対する批判や悪口に聞こえる言葉は、愛情の裏返しだとしてもダメという風潮。評論家まで批判を自重するような時代になりました。当然、『アンチ巨人』なんて死語になるわけです。そういう時代になったといえばそれまでですが、本当にこれでいいのかという思いもあります」(元巨人・広澤克実氏)
広澤はわりといいところをついている。
もっと「喝は喝」だと。
凡プレーは野次っていいし、ノックアウトされれば誰も拍手なんかしない。
あ、アンチは拍手するな
(そういうやり方がアンチなんだけど)
もし「正しく」批判しているのならそれは「アンチ」とは言われない。
つまり「アンチ」という言葉には、
「正当性のなさ」「こじつけ」「ただの感情」という意味が含まれているのだが、
そういったアンチがいなくなるのは、
広澤の言うような「批判しない風潮」も多少は影響があるだろう。
> 熱狂的な阪神ファンとして知られるダンカン氏が続ける。
>「本音をいえば、阪神ファンとしては、巨人には死ぬほど強くあってほしい。上から目線の巨人が好き。それを阪神が叩きのめすのが気持ちいいんです。巨人が憎いくらい強くないと、野球が面白くない」
ま、ダンカンはそれでいいよ。
アンチ馬鹿発言しないもん。
少なくとも表ではね。
それはまともな、阪神ファンといえる。
巨人ファンだってダメ虎しかいなかったらつまんないんでね。
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「アンチ巨人」は死語? 「くたばれ讀賣」禁止運動も
2016年02月06日 16:22 NEWSポストセブン
ファンが多ければその分アンチも多くなる。日本のプロ野球では、長く絶大な人気を誇った読売巨人軍を嫌う「アンチ巨人」の存在が知られてきた。巨人選手にヤジを浴びせ、巨人の敗北を誰よりも喜んだ人々。でも最近感じませんか。真のアンチ巨人が、ほとんどいなくなってしまったことを──。
『週刊ベースボール』(2015年12月28日号)に掲載された、ベースボールライター・石田雄太氏の連載コラム『閃・球・眼』が興味深い。「アンチ巨人」と題されたその回では、名古屋出身の石田氏が年の瀬に野球好きの昔の仲間と会した時のことを綴っている。
〈そういえば、と言って盛り上がったのが、最近のプロ野球界に蔓延る“アンチ巨人絶滅論”だ〉
〈アンチ巨人は巨人のことに詳しかった。(中略)穴が開くほど見つめなければ捉え切れない特徴をつかんでいる。そう、アンチ巨人は巨人を嫌いだと言いながら無関心ではなかったのだ。
下位のバッターにホームランを打たれるたびに「出たぁ、エガワの手抜きだぁ」と喜べるのは江川のピッチングを熟知しているからだし、チャンスで凡退した原の打球を見上げて、「よっしゃあ、またまた内野フライだぁ」と叫べるのも、原の打席を見続けているからだ。“好き”の反対は“嫌い”ではなく“無関心”だという言葉に説得力を持たせてくれたのが、アンチ巨人という存在だった〉
そして石田氏は〈今、そういう人は激減している。同時に野球に対して、そして巨人に対して無関心な人が増えてしまった〉と綴る。これは憎らしいほどの実力を持つスーパースターの不在と、プロ野球への「無関心」を意味するものであり、球界、特に巨人は重く受け止めるべきだ──という趣旨であった。
アンチ巨人全盛の時代では考えられなかったようなエピソードがある。近年は神宮球場での東京音頭演奏時に、前奏で「くたばれ讀賣、くたばれ讀賣♪」(※アンチ巨人は、「読売」ではなく敢えて旧字体で「讀賣」と書くのもこだわり)と歌うのを自粛し、「東京ヤクルト」と歌うように私設応援団が呼びかけている。同様に阪神ファンの集まる関西の居酒屋などでも、「くたばれ讀賣コールをやめよう」という動きが起きている。
「かつては1億総評論家といわれるほど、プロ野球ファンは皆が一家言を持っていました。良いプレーには拍手し、悪いプレーは平気で叱りつけていた。ヤジも“球場の華”とされ、球場観戦の楽しみの一つでした。
ところが今は、三振した選手を“次は頑張れ”と慰め、ノックアウトされた投手でも拍手で迎えるファンが増えている。選手に対する批判や悪口に聞こえる言葉は、愛情の裏返しだとしてもダメという風潮。評論家まで批判を自重するような時代になりました。当然、『アンチ巨人』なんて死語になるわけです。そういう時代になったといえばそれまでですが、本当にこれでいいのかという思いもあります」(元巨人・広澤克実氏)
球界に君臨する巨人への反発心から、悪態をつくことも許されていた時代は終わった。それはプロ野球というスポーツが成熟し、幅広いファン層を獲得したための「観戦マナー重視」という面もあるだろう。
しかし一方で、この風潮を招いたのは、巨人にかつてのような存在感が薄れたことも決して無縁ではないはずだ。「強敵不在」が、野球ファンの考え方まで大きく変える結果となったのである。
今後も巨人が「球界の盟主」を自任するならば、この現実からは目を背けてはならない。アンチ巨人という、潜在的な“最大のファン”を失った影響は大きい。漫画家のやくみつる氏がこう語る。
「確かに巨人は絶対強者じゃなくなりました。でも、昔のようなアンチ巨人の火を消してはいけません。連中は何をしでかすかわからないから、監視の目を怠ってはいけない。常に悪いたくらみをしているのが巨人ですからね」
熱狂的な阪神ファンとして知られるダンカン氏が続ける。
「本音をいえば、阪神ファンとしては、巨人には死ぬほど強くあってほしい。上から目線の巨人が好き。それを阪神が叩きのめすのが気持ちいいんです。巨人が憎いくらい強くないと、野球が面白くない」
こう語ってくれるファンは、巨人にとって、そして球界にとって本当にありがたい存在なのかもしれない。
※週刊ポスト2016年2月12日号
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