鎌倉市さんぽ「雪ノ下・鶴岡八幡宮から建長寺」
○「若宮大路」(小町2丁目・雪ノ下1丁目)
鎌倉駅を東に出ると「若宮大路」があります。若宮大路は、神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜(滑川交差点)から鶴岡八幡宮に通じる参道であり、同市の目抜き通りの一つです。養和2年(1182)、源頼朝が妻・政子の安産祈願のため造られました。京都(平安京)の朱雀大路を参考にして、鎌倉の都市計画の中心軸と位置づけられていました。
【二の鳥居傍の石碑】(小町1-7)
二の鳥居の南に、2基の「猿田彦大神」の石碑があります。
【段葛】
若宮大路中央の「段葛」は、全国で唯一残っている遺構です。段葛は、葛石を積み上げて造られたことからそう呼ばれています。現在の段葛は、二の鳥居からの500mほどの長さですが、造営当時は海岸まで通じていたといいます。
○「宇都宮神社(宇津宮辻子幕府跡)」(小町2-15)
若宮大路の東側にある雪ノ下カトリック教会の手前を入ると、「宇都宮稲荷神社」があります。この神社は、「宇津宮辻子(大倉)幕府跡」の一角に祀られています。三代執権・北条泰時は、北条政子が亡くなると、嘉禄元年(1225)源頼朝以来の「大倉幕府」から宇津宮辻子に幕府を移しました。嘉禎2年(1236)四代将軍藤原頼経が若宮大路に幕府を移すまでの11年間、ここ宇津宮辻子幕府が政治の中心となりました。
○「妙隆寺(鎌倉江ノ島七福神)」(小町2-17)
雪ノ下カトリック教会の東に妙隆寺があります。御家人千葉常胤の子孫胤貞の別邸があったことから、「千葉屋敷」とも呼ばれました。応永34年(1427)の創建。二代日親は、生爪をはがした血で墨をすり曼荼羅を描いたという人物で、永享11年(1439)「立正治国論」を室町幕府第六代将軍足利義教に建白しましたが、捕らえられ灼熱の鍋を被せられ、その鍋は一生取れなかったともいわれています。日親は、それほどの拷問を受けても所信を曲げない人物であったといいます。鎌倉・江ノ島七福神の一つで福禄寿を祀っています。
【丸山定夫の供養碑】
墓地には、新劇界の團十郎といわれる丸山定夫の供養碑があります。昭和20年8月6日に広島に投下された原子爆弾に被爆し、原爆症がもとで亡くなりました。
【日親百日水行の池】
日親は応永34年(1427)冬、「大法弘通に耐え得るや否や、自らの忍力を試さん」として、この池で100日間の水行を行ったといわれています。
○「大仏次郎邸跡(大仏茶廊)」(雪ノ下1-11)
妙隆寺から北西の路地を入ると「大仏次郎邸跡」(野尻邸)があります。ちなみに、大佛次郎の本名は野尻清彦であり、野尻邸となっているのはその子孫か縁故者が住まわれているからです。大仏次郎は鎌倉の地をこよなく愛した作家であり、鎌倉の景観保護に尽力した方でもあります。大正8年に建てられた茅葺き屋根のこの邸宅は修復され、現在は「大仏茶廊」(喫茶)として営業しています。
○「若宮大路幕府跡」(雪ノ下1-11)
大仏次郎邸跡の先に「若宮大路幕府跡」の石碑があります。鎌倉幕府の所在地は3か所あり、頼朝が開いた「大倉幕府」(西御門3丁目、1180〜1225年)、実朝死後に4代将軍藤原頼経が執務した「宇都宮辻子幕府」(小町2丁目、1225〜36年)、4代将軍藤原頼経から最後の9代将軍守邦親王まで続いたここ「若宮大路幕府」(1236〜1333年)です。この若宮大路幕府にて鎌倉幕府滅亡までの97年間、執政が行われました。北条時頼が幕府黄金を迎えたのも、北条時宗が元寇に立ち向かう評定を開いたのもこの場所でした。
○「鏑木清方記念美術館」(雪ノ下1-5)
妙隆寺から西に向かうと「鏑木清方記念美術館」があります。明治から昭和にかけて活躍した日本画家・鏑木清方の美術館で、鏑木清方が晩年を過ごした旧宅跡に開館しました。「朝涼」[あさすず]などの美人画をはじめ、抒情あふれる女性の姿や庶民の暮らしを描いた作品を収蔵しています。清方の画室も再現され、絵筆や絵皿などの遺品が往時のままに並んでいます。
○「窟堂(岩屋不動)」(雪ノ下2-2)
鏑木清方記念美術館から北西に向かうと「窟堂」(いわやどう、岩屋不動)があります。窟堂は不動明王を祀る岩屋のお堂で、源頼朝が鎌倉入りする前からありました。当時は街道が山の上を通っていたため、岩屋も山の上にありましたが、街道が山裾を通るようになったことや、大地震によって崩れたりしたことから、お堂も下に移動したのだといいます。窟堂は、松源寺(明治時代に廃寺)に管理されていました。
【窟堂の庚申塔】
窟堂の参道の左手に、5基の庚申塔が並んでいます。
○「鎌倉市川喜多映画記念館」(雪ノ下2-2)
窟堂の東に「鎌倉市川喜多映画記念館」があります。川喜多長政は、ヨーロッパ映画を日本に紹介した映画事業家で、昭和3年に東和商事を設立し、社員だったかしこと結婚し、妻とともに「自由を我等に」「巴里祭」「会議は踊る」などを紹介しました。昭和26年には社名を東和映画とし、「天井桟敷の人々」「第三の男」「禁じられた遊び」などを輸入・配給しました。記念館の横にある邸宅は、哲学者和辻哲郎が居住していた建物を、和辻の死後に川喜多夫妻が移築したもので、海外からの映画監督や映画スターを迎える場として使用されました。この建物の下には母屋がありましたが、平成22年4月1日、鎌倉市川喜多映画記念館として建て替えられました。
○「鉄の井(鎌倉十井)」(雪ノ下1-8)
さらに東に向かうと鶴岡八幡宮三の鳥居の西に、鎌倉十井の「鉄の井」(くろがねのい)があります。現在ではこの地に鉄観音の像は無く、ただその名称のみが井戸の名として残っています。傍らの石碑に次の説明があります。
《この井戸の水質は清らかで美味しく、真夏でも井戸の水が涸れることはなかった。昔、この井戸から高さ5尺(1.5m)余りの鉄観音(くろがねかんのん)の首を掘り出したことから、この井戸を鉄の井(くろがねのい)と名付けた。正嘉2年(1258)正月17日午前2時頃に安達泰盛の甘縄(あまなわ、長谷方面の昔の地名)の屋敷から出火し、折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に述べている。この井戸から掘出された観音像の首は、この火災のときに土中に埋めたのを、掘り出したもので、新清水寺の観音像と伝えられ、この井戸の西方の観音堂に安置された。明治に入り東京に移したと云われている》
○「鶴岡八幡宮」(雪ノ下2-1)
鶴岡八幡宮は、源頼朝が鎌倉に幕府を開く100年以上も前の康平6年(1063)に、頼朝の祖先・源頼義が「源氏の氏神」である京都の「石清水八幡宮」を、由比郷鶴岡に勧請したがその始まりです。治承4年(1180)鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えました。伊豆山権現の住僧專光坊良暹が、仮の別当に任じられています。建久2年(1191)火災によって焼失しますが、頼朝は若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に上宮(本宮)を新造し今日の姿(上下両宮)となりました。
【旗上弁天社(源氏池、鎌倉江ノ島七福神)】
旗上弁財天社は鶴岡八幡宮の境内社で、源氏池に浮かぶ島に建てられています。源頼朝の旗挙げに家運長久の守護神として弁財天が現れ、霊験があったと伝えられ、北条政子が建立したものとも伝わっています。参道や島には、奉納された源氏の二引の白旗が並べられ、鎌倉・江ノ島七福神の一つに数えられています。
【鎌倉国宝館】
昭和3年4月3日に開館した歴史と美術の博物館。鎌倉市域や近隣の社寺に伝来する彫刻、絵画、工芸、書跡、古文書、考古資料などの保管、展示をしています。
○「志一稲荷社」(雪ノ下2-3)
鶴岡八幡宮の西の鳥居を出ると鶯谷山(愛宕山とも呼ばれる)があり、の中腹に志一稲荷社があります。志一とは京都仁和寺の僧の名。この辺りは、鶯ヶ谷と呼ばれる谷戸で、三代将軍源実朝が鶯の初音を聞いたという故事からそう呼ばれるようになりました。
【志一稲荷社の伝説】
『太平記』に次のように書かれています。
《訴訟で鎌倉に来た志一が筑紫に忘れてしまった文書を、可愛がっていた狐が一夜のうちに持って帰ってきたという。しかし、長い道のりを走り続けた狐は死んでしまった。その狐を稲荷に祀ったというもの。それを聞いた畠山入道が「深く感じ入り信仰した」という。狐の奇特に感じ入った関東一円の人々が信仰した。》
【志一稲荷社の庚申塔】
志一稲荷社の右手、崖の際に1基の庚申塔があります。
○「旧巨福呂坂」(雪ノ下2丁目)
鶴岡八幡宮の境内の西側、本宮に直接通じる階段あたりから、県道を反対側に渡ったところに「旧巨福呂坂」(きゅうこぶくろざか)の入口があります。巨福呂坂切通は鎌倉七切通しの一つで、北方の武蔵方面から北鎌倉を経て鎌倉へ入る際の要衝に、延応2年(1240)時の執権・北条泰時の命により切り通しました。巨福呂坂は、現在一般的には小袋坂と書かれています。『新編相模国風土記稿』には、「古くは巨福呂或いは巨福路とも書き、鎌倉七口の一つにして、鎌倉より山ノ内村に通じる上り三町程の嶺を村の境としている」とあります。鎌倉幕府最後の日、元弘3年5月、鎌倉攻めの新田義貞軍の将・堀口貞満、守る北条軍の将・長崎高重で、両軍の激突は物凄く、19日から22日まで烈しい攻防戦が展開されたのが「巨福呂坂の戦い」でした。また『一遍上人絵伝』には、時宗開祖の一遍が巨福呂坂を抜けて鎌倉に入ろうとしたのを、八代執権北条時宗に阻止されたときの様子が描かれています。
【青梅聖天社】(雪ノ下2-6)
旧巨福呂坂を100mほど上ると正面にトンネル(立入禁止)が見え、その手前から右へさらに進むと左手に「青梅聖天社」があります。青梅聖天の歓喜天像は、鎌倉市の指定文化財で南北朝時代の作と伝えられ、現在は鎌倉国宝館に寄託されています。『新編鎌倉志』によれば、病気になった将軍が季節はずれの「青梅を食べたい」というので、家臣がこの社で祈願すると梅の木に実がつきました。それを食べた将軍は快癒し、以来、青梅聖天と呼ばれるようなったといいます。病になった将軍というのは、三代将軍源実朝だったとも伝えられています。かつて、聖天社の先には古井戸があって、江戸時代の泥棒・鼠小僧次郎吉が手足を洗ったといわれています。その井戸の前には茶屋があって、店の猿が客に愛想をふりまき人気を集めていたことから「猿茶屋」と呼ばれていたといいます。また、江戸から八幡宮まで遠乗りをしてきた侍が休息した所なので、「遠馬茶屋」とも呼ばれていたようです。
【旧巨福呂坂の庚申塔】
青梅聖天社の先に一群の石塔(13基のうち6基が庚申塔)があります。このあたりが、巨福呂坂切通の雰囲気が残されています。ただし、この先の旧道は通行止めになっています。
○「巨福呂坂洞門(新福呂坂)」
戻って新福呂坂を行くと、坂上に「巨福呂坂洞門」があります。平成5年に完成した崖崩れ対策のための防護シェルターで、切通しのイメージを損なわないようにしてあります。
○「円応寺(閻魔寺)」(山ノ内1543)
巨福呂坂から建長寺に向かう途中、左手の高台の上に円応寺(正式には圓應寺)があります。創建は建長2年(1250)、開山は智覚禅師、十王堂とも呼ばれ、人が死後亡者となって冥界で出合う十王を祀る寺です。本尊の閻魔大王像は、笑っているようにみえることから「笑い閻魔」と呼ばれ、円応寺で赤ちゃんの名をつけてもらうと丈夫に育つということから「子育て閻魔」とも呼ばれています。
【円応寺の庚申塔】
庚申塔は石段を上った右手に1基あります。元禄4年9月の建立で、上部に2行「あらひ」「子そだて」と刻み、その下に「閻魔王」と大きく彫ってあります。
○「建長寺」(山ノ内8)
巨福呂坂の切り通しを抜けると「建長寺」です。臨済宗建長寺派の大本山であり、鎌倉五山の第一位。建長5年(1253)後深草天皇の勅を奉じ、北条時頼(鎌倉幕府五代執権)が国の興隆と北条家の菩提のために、中国より名僧蘭渓道隆を招き建立しました。創建当初は、中国宋の時代の禅宗様式七堂伽藍に四十九院の塔頭を有し、厳然たる天下の禅林でした。また、建長寺は日本で初めて純粋禅の道場を開き、往時は千人を越す雲水が修行していたと伝えられるわが国最初の禅寺です。
【妙高院】
妙高院(みょうこういん)は、第二十八世肯山聞悟(こうざんもんご)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。鎌倉観音巡礼第27番札所(聖観世音)。肯山聞悟は、建長寺創建時の史料「建長寺興国禅寺碑文」を撰文したことで知られます。肯山聞悟像のほか、蘭渓道隆に仕えた乙護童子像が安置されています。
【西来庵】
西来庵(せいらいあん)は、建長寺の開山蘭渓道隆(大覚禅師)の塔所。道隆の示寂(弘安元年=1278)後間もなくの創建とされます。昭堂(国重文)・開山堂・食堂(本堂)・坐禅堂からなります。開山堂には木造蘭渓道隆像が安置され、背後には蘭渓道隆の墓(大覚禅師塔)と円覚寺開山無学祖元の墓があります。
【龍峰院】
龍峰院(りゅうほういん)は、第十五世約翁徳倹(やくおうとくけん)の塔所。本尊は聖観音菩薩。鎌倉観音巡礼第29番札所(聖観世音)。もとは八代執権北条時宗が創建した持仏堂だったといいます。開基は九代執権北条貞時。約翁徳倹は、鎌倉の路傍に捨てられていたのを拾われたといわれ、蘭渓道隆の下で禅を学びました。木造地蔵菩薩像、約翁徳倹像を安置しています。
【天源院】
天源院(てんげんいん)は、第十三世南浦紹明(なんぽじょうみん)の塔所。本尊は釈迦牟尼仏。南浦紹明(大応国師)は、蘭渓道隆のもとで要職をつとめ、北九州を拠点に禅を広めていましたが、九代執権北条貞時に招かれ、建長寺の住持となりました。
【回春院】
回春院(かいしゅんいん)は、第二十一世玉山徳旋(ぎょくさんとくせん)の塔所。本尊は文殊菩薩。本堂前の「大覚池」には大亀がいるとの伝説があり、別名「亀池」ともいいます。宝珠院に起居していた作家・葛西善蔵の墓がここにあります。開祖像のほか木造韋駄天像を安置しています。回春院の裏山は十王岩へと通じ、約50穴からなる朱垂木やぐら群があります。
【河村瑞賢の墓】
半僧坊に向う途中の茶店・招寿軒を左に折れると、河村瑞賢墓があります。瑞賢は、江戸時代の豪商で土木・建築も手掛けた人物で、海運の発展に貢献し、「西廻り航路」や「東廻り航路」を開いた人物としても知られています。瑞賢自身は伊勢の出身ですが、先祖が相模の河村に住んでいたことから河村と名乗ったといいます。瑞賢は、建長寺裏に別荘を建てたといわれ、命日にあたる6月16日には墓前で法要が行われます。
【半僧坊大権現】
半僧坊大権現は、建長寺裏山の中腹にあります。後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた、静岡県浜松市にある方広寺が半僧坊の本元です。禅師につき従っていた男が、薪採りや水汲み食事の仕度をしていたので「飯僧」と呼ばれ、のちに「半僧坊」と呼ばれるようになったといいます。この男は、禅師が中国での修行を終え帰国する途中で嵐に遭った際に禅師を助けたといわれています。
【建長寺の庚申塔】
建長寺の境内の奥、回春院へと右に分かれる道の少し手前、半僧坊へ向かう道の途中から左に入ります。入口に1基、続く石段の右手に4基、すぐ反対側に1基、やや進んで右手に1基とあります。さらに石段を上りきってまもなく右手に1基、左手に2基、合計10基あります。その奥に、河村瑞賢と第二子の通顕の墓があります。
○「禅居院」(山ノ内1534)
建長寺の門前に「禅居院」(ぜんきょいん)があります。門は閉まっています。建長寺の塔頭で第二十二世清拙正澄(せいせつせいちょう)の塔所、本尊は聖観音菩薩。清拙正澄は、十四代執権北条高時の招きで来日しました。浄智寺、円覚寺、建仁寺、南禅寺にも住持しました。亡くなる前に筆をとった遺偈は国宝で、本尊聖観音半跏像は鎌倉時代の作です。秘仏に摩利支天坐像が安置され、正澄が日本に来る際に、中国皇帝より託されたものと伝えられています。
○「第六天社」(山ノ内1526)
さらに西に向かうと左手に「第六天社」があります。山ノ内上町の氏神社で建長寺の鎮守神とされますが、階段の門は閉まっています。『鎌倉日記』には、「円覚寺を出て南行して、第六天の森を見る」と記されており、徳川光圀寄進と伝えられる建長寺境内図にも描かれています。社殿内には、江戸時代の第六天と四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が祀られています。この辺りに、安倍晴明の屋敷があったといわれています。
【安倍晴明の碑】
鳥居左後方には、平安時代の陰陽師安倍晴明の石碑が建てられています。
【第六天社の庚申塔】
鳥居右後方に、3基の庚申塔があります。
○「長寿寺」(山ノ内1503)
さらに西に向かうと、亀ヶ谷切通入口の先に「長寿寺」(正式には長壽寺)があります。足利尊氏がその邸跡に創建し、尊氏の第四子で鎌倉公方となった足利基氏が父の菩提を弔うため、七堂伽藍を備えた堂宇を建立したといいます。足利尊氏の菩提を弔うために子の基氏が建立したとする説もありますが、建武3年(1336)の古文書には、長寿寺を諸山に列したという尊氏の記録があることから、基氏以前の建立と考えられています。長寿寺の南側が、足利尊氏の屋敷があったところとされていますが、尊氏の屋敷が山ノ内にあったかどうかは定かではありません。
【足利尊氏の墓】
長寿寺の観音堂背後の崖には、足利尊氏の遺髪を埋めたとされる「やぐら」があって五輪塔が建てられています。尊氏は建武3年(1336)、「建武式目」を制定して室町幕府を開くと、延元3年(1338)には北朝の光明天皇より征夷大将軍に任ぜられました。延文3年/正平13年(1358)4月30日、京都二条万里小路第で死去(享年54歳)。関東では「長寿寺殿」が尊氏の法名ですが、京都では「等持院殿」。また、本堂の足利尊氏像の胎内には尊氏の歯が納められているといいます。
○「烏森稲荷神社」(山ノ内1473付近)
さらに西に向かうと、北鎌倉のJR踏切が見えてきます。左手の安倍清明を祀る石碑の手前、横横道路標識のあるところに左に入る狭い参道があります。その突き当りが小さな「烏森稲荷神社」です。
【烏森稲荷神社の庚申塔】
社の左手に、文化7年(1812)、天保2(1831)の銘のある庚申塔2基があります。
ログインしてコメントを確認・投稿する