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2015年11月30日06:56

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葉山町さんぽ「木古庭街道・高祖坂(宗源寺坂)から新善光寺」

葉山町さんぽ「木古庭街道・高祖坂(宗源寺坂)から新善光寺」

○「境地蔵(藪地蔵)」(木古庭1597)
木古庭街道(R27、バス道路)の大楠山登山口バス停から南(大楠山方面)に上って行くと、右手の三差路角に「境地蔵」(横須賀市の呼び名)があります。享保20年 (1735)造立の銘があり、葉山では字名から「藪地蔵」と呼ばれています。この辺りが、葉山町(木古庭)と横須賀市(阿部倉)の境になります。
【木古庭の地】
これから歩く木古庭(きこば)は、葉山東端の山合いにある静かな地域で、江戸時代の海防の要衝浦賀へ通じる街道筋(古東海道)にあたります。
【宗源寺坂】
境地蔵の方へ上る坂は、「宗源寺坂」と呼ばれています。宗源寺がどこかは不明が、衣笠駅付近に曹源寺があり、実際、過去には宗源寺と書いていたそうです。

○「高祖坂」(木古庭1543付近)
木古庭街道(バス道路)まで戻り、大楠山登山口交差点から北西に上る坂は、「高祖坂」と呼ばれています。日蓮上人(高祖)が布教のため房州(千葉)から海を渡り、横須賀米が浜から鎌倉へ向う途中、ここ木古庭(本円寺)に滞在したといいます。この坂は滞在中に日蓮が切り開いたともいわれています。この道が浦賀道にあたります。
【高祖井戸】
高祖坂の途中、高橋家長屋門の先を右に入ると竹林中に「高祖井戸」があります。

○「本円寺」(木古庭1662)
高祖坂を上り坂上から下って北に向かうと、下山川沿いに「本円寺」があります。建長5年(1253)日蓮上人が房州阿波から鎌倉への途中、ここに法華の道場をさだめたことが初めとされている名刹です。「木古庭のお祖師様」と呼ばれます。
【畠山城址橋傍入里の庚申塔】(木古庭164)
本円寺の北方、下山川に架かる畠山城址橋の傍らに5基の庚申塔があります。

○「木古庭馬頭観音塔(道標)」(木古庭604)
本円寺から下山川沿いに下って行くと、不動橋の手前、横浜横須賀道路の高架下を左折するとすぐに「木古庭馬頭観音塔(道標)」があります。文政5年(1822)の銘があり、道標を兼ねた三面八臂の馬頭観音塔です。馬頭観音菩薩座像の浮彫があり、台石に道標文字を刻みますが判明できません。説明板によれば、別のとこから移設されましたが、浦賀道と金沢道の分岐にあったそうです。

○「宗源寺坂 (高祖坂)」(木古庭)
馬頭観音塔から木古庭街道(バス道路)に出て、木古庭陸橋交差点から南東に上る坂は「宗源寺坂」と呼ばれています。この坂を「高祖坂」とする説もあります。宗源寺がどこかは不明が、衣笠駅付近に曹源寺があり、実際、過去には宗源寺と書いていたそうです。
【高祖坂の庚申塔】(木古庭1514)
横浜横須賀道路高架下を山側に入ると高祖坂(宗源寺坂)になり、さらに上ると道が右折しますが、その曲がり角の路傍に2基の庚申塔があります。うち一つは元禄7年(1694)造立の銘があります。標柱には「高祖坂の庚申塔」とあり、葉山町ではこの坂を高祖坂としているようです。

○「不動橋」(木古庭588)
横浜横須賀道路高架下の西に「不動橋」があります。浦賀道の頃は鎌倉橋(かんばし)と呼ばれました。中世鎌倉へ通じる道の橋だったためこの名になったといわれており、現在地に架け替えられ不動橋となりました 。
【永嶋家のカヤの木】(木古庭1301)
不動橋の手前(東側)から南西の不動滝に向かうと、永嶋家の前に「カヤの木」があります。大きさは目通り285cm、樹齢300年以上、相当の大木で樹形もよい雌の木です。「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」の26番目になっています。

○「木古庭(滝)不動堂」(木古庭926)
永嶋家のカヤの木からなおも西に向かうと、「木古庭(滝)不動堂」があります。平安時代末、平氏の命を受けた畠山重忠が衣笠城の三浦氏を攻める際、戦勝を祈願して不動明王を祀ったと伝わり、本尊の不動明王像は、重忠の念持仏で「身代わり不動」(畠山重忠の守護不動)ともいわれています。ちなみに、木古庭の不動尊・衣笠大善寺不動尊・武山の不動尊を、通称「三浦の三不動」と呼びます。
【不動滝】
不動堂の入口左側に「不動滝」があります。落差約5mの三浦半島で最大といわれる滝です。水量が豊かとはいえませんが、流れもしっかりしており、鍾乳洞から流れ出ているともいわれます。木古庭の南側一帯の灌漑用水として昔から利用され、古くから修験者も修行したと伝わり、傍らに小さな不動像があり、滝の向かい側には茶店も出ていたとか。
【不動庚申塔】
境内に不動庚申塔があります。明治28年の建立。台座に2童子が彫られていますが、中央に滝の下に水が流れて修行をする行者が彫られているのが珍しい石塔です。
【畠山次郎重忠一族の供養塔】
境内に「畠山次郎重忠公一族郎党の霊」と書かれた供養塔があり、今でも重忠公の徳を偲んでお花や線香が供えられています。
【明神社】
不動堂の裏手の一段低いところに「明神社」があります。 左手にあるのが本殿で、右手にあるのが小屋風の拝殿になります。
【大沢の庚申塔】(木古庭761)
明神社の鳥居の先の石段を降り立つと、「明神社参道入口」と書かれた標柱が立っており、左手には小さな祠に仏像が安置されていて、綺麗な花も供えられています。道路反対側には1基の「大沢の庚申塔」があります。

○「西光寺」(上山口93)
木古庭街道(バス道路)に出て西に向かうと、上山口小学校の北に「西光寺」があります。17世紀初頭の創建。本尊の阿弥陀如来三尊立像は室町末期の作で、地蔵菩薩立像は胎内に小仏像9駆が祀られています。
【寺前の庚申塔】(上山口156)
上山口小学校側の西方、猪俣川に架かる猪俣橋東詰めの旧道脇に2基の「寺前の庚申塔」があります。

○「杉山神社」(上山口2639)
木古庭街道(バス道路)に出て、上山口小学校バス停から西に向かい左折すると、大楠山の麓、葉山国際ゴルフCC入り口の近くに「杉山神社」があります。神社の裏にある棚田はすばらしいです。杉山神社のいわれは次のとおりです。
《ある年の暮れ、漁師の兄弟が網を引いていたところ、海中から神像がかかって上がってきた。ところが、年の瀬で多忙だったため、杉の葉を集めて造った仮の杜に像をまつったのがはじまりとされる。明治時代には、杉宮さまと呼ばれ、土地の人々から厚く信仰されている。》
この逸話は、大昔にこの辺りまで海が入り込んでいたことを想像させます。事実、池上あたりまで相模湾が入り込んでいたようです。次の由緒書きがあります。
「『新編相模国風土記稿』に、杉宮村の鎮守なり、祭神詳ならず、昔、土人神像を海中より得たり、折しも除日(12月末日)のことにて、歳終繁劇の間、杉葉を集めて仮に社の形をなして鎮座す、故にこの神号起これりと云ふ。」
【正吟の庚申塔】(上山口2354)
杉山神社から西に向かい坂上から下って、右に大きく曲がる三差路の奥の鬱蒼とした木陰の塚上に6基の「正吟の庚申塔」があります。いかにも庚申群らしい庚申群で、その中に珍しい貝化石を含んだ自然石の寛政12年(1800)銘の庚申塔があります。三浦半島ではここだけです。
【栗坪の庚申塔】(上山口558)
少し戻り石井牧場の更に奥、橋手前の右崖に1基の庚申塔があります。

○「猪俣小平六と岡部六弥太の墓」(上山口407)
正吟の庚申塔から木古庭街道(バス道路)に出て、直進して御拝堂橋を渡り右折すると左手に、石造り五輪塔が祠の中に2基並んでいます。この五輪塔は、「猪俣小平六(左)と岡部六弥太(右)の墓」といわれ、もとはここより約200m南を流れる下山川近くにあったものを、江戸時代に現在地に移したものといいます。この地域では、この2人の武士は源平の合戦で卑怯な手段を使って敵を討ち取ったので、故郷に帰れずこの場で自害したと伝えられていますが、ただし、これを証する直接の資料はないといいます。
【もう一つの栗坪の庚申塔】(上山口469)
二将の墓から旧道を西に向かうと、すぐの右手に六地蔵と並んで11基の石塔があります。聖徳太子塔、馬頭観音塔3、十一面観音塔、地蔵、不明2、庚申塔3基です。この庚申塔は「栗坪の庚申塔」といわれています。
【古東海道】
栗坪の庚申塔のある道筋は「古東海道」と伝えられ、「かながわの古道50選」にも選ばれています。

○「大昌寺」(上山口768)
さらに古道を西に向かい、道中橋の手前、「葉山町上山口491」と書かれた電柱のところを右折して、大昌寺橋を渡った先に「大昌寺」があります。延元3年(1338)開基の浄土宗の古刹です。
【大昌寺のモミジ】
大昌寺の3本のモミジ (楓)ほど大きく立派な姿勢の木はありません。もっとも、参道から境内にかけておよそ20mの間隔で行儀よく並んでいます。「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」になっています。

○「観正院」(上山口2165)
大昌寺から南西に向かい木古庭街道(バス道路)に出て、交差点を渡って南に入り、ホテルの先を左折すると「観正院」があります。寛永11年(1634)の創建とされています。元禄8年(1695)に開山され、本尊は十一面観音像となっています。 堂守がいないこの御堂は日頃は戸締まりされていて、 今では上山口小学校のそばにある西光寺の持ち寺となっているようです。
【黄金坂】
ホテルの前の坂道は新しくできた坂で「黄金坂」と呼ばれています。小金坂に近いので、同じ坂名としたのかは不明です。この坂は湘南国際村まで上っているようです。
【葉山CC入口高架下の庚申塔】
観正院の西方、坂道を上って行くと、湘南国際村道路高架下の先に3基の庚申塔があります。

○「御感のシダレザクラ」(上山口1870)
観正院から南西に向かうと、鈴木家に「御感のシダレザクラ」があります。大正天皇が皇太子時代、病気療養のため葉山御用邸に滞在中に、よく馬に乗って見に来られたという由緒のある桜です。根本から枝先まで10mもの枝が地面につきそうなくらい伸びて、見事なしだれ桜となることで有名です。しかし、平成25年の台風で折れてしまったそうで、残念です。

○「水源地入口バス停前の庚申塔」(上山口1264)
御感の桜から北西に木古庭街道(バス道路)に出ると、水源地入口バス停前の道路反対側の竹で覆われたスペース内に石塔が4基あります。2基が庚申塔、1基が馬頭観音塔、1基は石積み塔です。

○「新善光寺」(上山口1368)
木古庭街道(バス道路)をさらに西に向かい、滝の坂バス停の北側を上ると「新善光寺」があります。創建は詳細不明ですが、鎌倉の名越から移ったと伝えられます。源頼朝が長野の善光寺より請来した善光寺如来を不拾山新善光寺と名命して、建仁年間(1201-04)に蜜道和尚によって開基創建されたと伝えられます。
【新善光寺の晩鐘】
葉山八景の一つに「新善光寺の晩鐘」があります。
【小金坂】
新善光寺の前を北東に下る木古庭街道(バス道路)は、「小金坂」と呼ばれています。坂名の由来は不明です。
【初代高尾太夫】
江戸吉原の遊君・初代高尾太夫は、上山口小金井(新善光寺の近く)の生まれと伝わり、遊郭「三浦屋」(主人は葉山長柄出身)のお抱えといわれています。『三浦古尋録』に、「青桜の遊君高尾此処(上山口小金井)ノ出生ノヨシ申ス」とあります。高尾太夫は年を重ねてから、仏門に入り「妙心」と名乗り読経三昧の日々を送ったといいます。高尾太夫を偲んで小金坂の辺りを「高尾の里」と名付け、ハイキングコースになっています。
【唐木作の庚申塔】(上山口1391)
新善光寺の下の葉山方面滝の坂バス停の右脇を下ると、すぐ右側に石塔が6基あり、庚申塔3、馬頭観音1、不明2です。この庚申塔は「唐木作の庚申塔」といわれています。

○「滝の坂不動(吾妻神社)」(一色)
滝の坂トンネルの先を右折して上ると「滝の坂不動」があります。かつては「吾妻神社」といわれ、今でも鳥居が残っています。祭神は日本武尊。滝の坂不動への坂は「古東海道」の道筋で、滝の坂トンネルができる前は、滝の坂不動から新善光寺の方へ浦賀道は続いていたようです。
【霊泉井戸】
本殿横に「霊泉井戸」があります。日本武尊が東征の折、こんこんと霊水が湧き出るこの地で休憩され、走水から上総国へ向かわれたと伝えられています。かつては霊水が溢れていましたが、県道横須賀葉山線の工事に伴い水脈が変化し水位が下がってしまいました。

○「星山の庚申塔」(下山口160)
新善光寺まで戻り下山川沿いに下って行くと、水源地橋で水源地入口から葉山公園方面に行く道路に出ます。この道を西に暫く行くと道が分岐し、右が葉山公園方面ですが、左の方へ行って坂を上り切り、人家が途絶えたあたりの三叉路に5基の庚申塔があります。この庚申塔は「星山の庚申塔」といいます。

○「穴守稲荷」(下山口122)
葉山公園方面への道に戻り、西に向かうと右手に「穴守稲荷」があります。詳細不明。

○「観音堂」(下山口378)
さらに西に向かい、星山橋を渡り先の住宅地の中の道を右折して、北に上って行くと最奥に「観音堂」があります。山里の趣漂う山腹にある小堂で、鎌倉から移設された観音像が祀られているようです。
【平兼盛の墓】
観音堂の左側の民家との間の道に入って行くと、平安の歌人「平兼盛の墓」と伝わる凝灰岩の五輪塔があります。平安の末期、村上天皇の時代に史上有名な天徳内裏歌合せで、平兼盛と壬生忠見の対決がありました。「忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問うまで」(第40番)、百人一首に出てくる平兼盛の有名な一首です。これに対する返歌が壬生忠見の歌で、「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思いそめしか」でした。双方とも抜群の秀歌だったので判者が勝敗をつけかねていたところ、御簾の中の村上天皇が密やかに兼盛の歌を口ずさまれたので、判者は兼盛の勝ちに決めたといわれ、壬生忠見は失望落胆して不食の病となり亡くなったといわれています。
【観音堂下の庚申塔】(下山口603)
先ほど上ってきた途中、観音堂下の三差路に2基の「観音堂下の庚申塔」があります。

○「茅木山の庚申塔」(下山口991)
さらに葉山公園へと西に向かうと、平橋の先の二つめの三差路付近に2基の庚申塔があります。

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