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2015年11月11日06:48

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横須賀市さんぽ「佐島長坂・天神島から無量寺」

横須賀市さんぽ「佐島長坂・天神島から無量寺」

○「神明社」(佐島3-9)
逗子(新逗子)駅前から佐島マリーナ入口行きのバス(1時間に1便)に乗り、終点で下車します。バス停の先へ向かうとT字路があり、その手前の山際に鳥居が立っていて「神明社」と刻まれた石碑もあります。鳥居の先の急な石段を上っていくと、木製の鳥居の先に祠があります。その左脇には「大亀三社大明神」と刻まれた石碑もあります。振り返ると、樹木に邪魔されながらも佐島漁港などが見えますが、この佐島の海を見守っているようです。

○「天神島(天神島臨海自然教育園)」(佐島3-7)
戻ってT字路を左折して天神橋(かながわの橋100選)を渡ると「天神島」で、すぐに「天神島臨海自然教育園」(入園無料)があります。入口には、横須賀風物百選にも選ばれている「北限のはまゆう」の標柱も立っています。中に入って管理棟のような建物の前から海岸へ出てみると、磯浜の沖には「笠島」が浮かんでいて、うみねこ等の繁殖地になっています。説明板に次の説明があります。
《横須賀市佐島の天神島および笠島周辺は、三浦半島を代表する動植物が分布しており、 また地質学上でもきわめて重要なところです。天神島は周囲1劼燭蕕困両島でハマユウの群落およびハマボウがみられ、その分布は植物地理学上、日本の北限となっています。 またこの島に生育する海岸植物の総数は146種にも及びますが、このように種類、数のまとまったところは他地区ではみられません。となりの笠島は天神島と同じ凝灰岩からできている小島で、変化に富んだ岩礁をかたちづくり各種の海産動物の生息水域に囲まれています。》
南の礒の先まで出てみると、相模湾を一望できる360度の眺めが広がっています。打ち寄せる波が岩に当って砕け散り、心地よい音をたてていました。
【天満宮 (天神社)】
教育園を出て右に行くとすぐに「天満宮」(天神社)があります。次の説明があります。
《現在、この天神島に御鎮座される天神社は、学問の神様菅原道真公を祭神にしてお祀りしています。 境内に天満宮と彫られた社号の石碑があります。 これは、道真様の神号「天満大自在天神」にちなみます。 古来より地元佐島の皆さんをはじめ、多くの人に信仰されてきました。そのいわれを紐といてみましょう。天神社の縁起書が伝わっています。それを読むと、15世紀の初め宮家の流れを引く佐々木道人なる方が神仏を深く信仰され、 特に九条家の守本尊であった天神様を崇敬されていました。ある時、関東にお出になり、霊地の嶋(天神島)を見つけ、ここに御神体を安置したことに始まります。その後、多くの方がお社を盛り立てました。当時は神仏習合の時代ですから、神社には管理するお寺があり、西岸寺(最岸寺)が別当になりました。》
【吉野秀雄の文学碑】
天満宮の鳥居近くの森の際に「吉野秀雄の文学碑」があります。次の説明があります。
《爐海療腓鯔霧造箸擦詆楊斂覆 身を寄せ合ふがごとき茂りよ 草質といへど逞し浜おもと 佐島の磯にいのち根づきし
昭和29年7月の下旬に、吉野秀雄は横須賀に住む知人から「佐島のハマユウが咲き出したらしい」との連絡を受けて、ここ天神島を訪れた。その日、秀雄は鎌倉の家から逗子に出て、芦名行きの臨時バスに乗っている。初めは満員であった客も、森戸・一色・長者ヶ崎や久留和・秋谷などの海水浴場でだんだんに減り、終点の芦名で降りたのは、秀雄ただ一人であったという。碑の歌は、この時に読まれたもので、昭和33年10月に「寒蝉集」と新編「晴陰集」を収録して出版された「吉野秀雄歌集」に収められている。秀雄は明治35年7月、群馬県高崎市に生まれた。大正11年慶応義塾大学経済学部に進むが、13年喀血して帰郷、長年にわたる療養生活がここに始まった。そしてこのころから、子規・左千夫以下のアララギ派歌人の歌集を読み、作歌を志すなど、国文学を独修することになる。昭和6年鎌倉に転居し、8年にはかねてから私淑していた会津八一に初めて会っている。秀雄は生涯病気と闘いながらも、自らの信念に基づいて作歌し続け、ついには独自の歌風を打ちたてた。歌集は前記のほかに「天井凝視」「苔径集」「早梅集」、没後出版の「含紅集」があり、他に歌論集「短歌とは何か」、随筆集「やはらかな心」などの著述もある。昭和42年7月、鎌倉市小町の自宅で逝去、生前こよなく愛した瑞泉寺に眠る。》
【天神島ビジターセンター】
吉野秀雄の文学碑の先のY字路を右手へ進んでいくと、「天神島ビジターセンター」があります。1階には展示ホール・学習室、2階には展示室・図書室があって、天神島とその周辺地域の歴史・漁業・自然などが紹介されています。

○「熊野社」(佐島2-14)
天神橋まで戻り車道に出て右折していきます。 バス停を過ぎると右側に佐島漁港があります。その先を左折して北西に向かうと「熊野神社」があります。鳥居をくぐった先に石段が続いていて、登り口には「熊野社」と刻まれた石碑もあります。かなり歴史がありそうな様子ですが、由緒を記したものは見あたりません。社殿の右手から裏手にかけては岩盤を削った崖になっていて、四角く掘られた穴も幾つかあります。
【福本寺】(佐島2-15)
熊野社の左側の道を先へ進むと、「福本寺」があります。明応2年(1493)の創立と伝えられ、開基は清涼禅定文(明応2年2月18日寂)、開山は方誉岸了大和尚(永正4年3月23日寂)です。本尊は阿弥陀如来。
【福本寺の庚申塔】
福本寺の参道の左に、石碑や石像が9基並んでいますが、その内6基が庚申塔です。
【最岸寺】(佐島2-14)
熊野社の東隣に「最岸寺」があります。詳細不明。

○「専福寺」(佐島2-7)
東に向かうと観音崎の先に「専福寺」があります。1500年頃の創建と伝えられています。
【専福寺の観音堂(観音鼻)】(佐島1-26)
専福寺から200m戻ると、観音鼻と呼ばれる出崎(観音崎)に、十一面観音菩薩座像が安置されている「観音堂」があります。この観音堂は、もともとは馬骨の坂にあった「観妙寺」で、行基作の観音菩薩を本尊として祀っていましたが、天文19年(1550)火事にあい焼失しました。当時、三崎城を本拠に江戸時代に至るまで約80年間三浦半島を支配していた後北条氏の家臣・糟谷兵部少輔(芦名、佐島を統治)がお堂を再建し、当時の鎌倉仏師を代表する一人であった長盛(ちょうせい、大蔵法眼)に、本尊の観音像をつくらせて祀ったといいます。
【専福寺下の庚申塔】
東に進むと、専福寺下の道路沿いに石碑が4基あります。風化していますが、一番右は「馬頭観音」で庚申塔は3基です。
【東蔵寺】(佐島2-6)
専福寺から東に向かうと「東蔵寺」があります。詳細不明。

○「祖母神社」(長坂3-12)
西海岸通りの佐島入口交差点に出て直進すると、右手に奥に長坂町内会館に隣接して「祖母神社」があります。1616年に日向の国の姥山獄明神を分霊にして祀った社といわれ、安産の神として人々から崇拝されています。次の由緒書きがあります。
《当社は、もと祖母山明神と称し元和2年(1616)10月、第108代後水尾天皇の御代に日向の国(今の宮崎県)にある姥嶽明神を勧請したと伝えられ、元和2年の棟札と元禄16年(1703)の棟札を蔵しているが、その他の由緒については詳かにされていない。明治6年一村一社に定められ祖母神社となった。更に明治41年7月次の三社を合祀することになった。秋葉社(鹿島)穂須勢理尊、白山社(谷戸)伊邪那美尊、若宮社(石谷戸)大日靈貴命。この外に白山社(寺地)、山王社(里)、浅間社(堀越)、祇園社(荻野)を合祀したことも記録に残っている。そして大正3年神饌幣帛供進神社に指定されたが終戦後憲法により国及びその機関はいかなる宗教的活動もしてはならないことになりこの制度は廃止された。また、この神社は昔から安産の神社として多くの人々から崇敬されている。なお当神社の社殿が権現造りと記録されているが、日光東照宮よりも一年早く建立されているものである。》
【狛犬】
境内に安政5年建立の江戸流狛犬があり、「佐嶋村 石工 上田伊右衛門」と刻まれています。三浦半島の石工というと、源右衛門と共に思い浮かぶのが伊右衛門で、東の源右衛門に対して、西の伊右衛門といわれています。東西(三浦半島の)両横綱といったところか。現在も横須賀市佐島には上田石材加工店があり、確認はしていませんが、多分伊右衛門の流れを継ぐ店なのではないかと思われます。

○「長坂古戦場」(長坂4-2周辺)
西海岸通りを北に向かうと、無量寺へと向かう三差路周辺(やぐら洞穴あたり)が「長坂古戦場」といわれています。『鎌倉九代記』によれば、永正9年(1512)三浦新井城主。三浦道寸義同は、相模国の平定をめざした北条早雲に住吉城(逗子市)を攻め落とされ、秋谷の大崩で合戦し、この長坂あたりでも敵軍を支え、林の黒石、そして佐原の要害をも打ち敗られ、やもなく新井城に立てこもった様子が記されています。
【馬骨坂】
西海岸通りの佐島入口交差点から北西に上り、大楠山入口交差点まで下る坂は「馬骨坂」と呼ばれています。西海岸通りの山側の字名が「馬骨」(まぼね)で、古老の話では、[坂はもっと急で、今の国道(西海岸通り)を縫うように曲がりくねっていた。子どものころ、秋谷へ行く荷車を押し上げて駄賃をもらった。昭和40年頃まで牛も飼っていた。牛も骨が折れるので、前足の草履をはかせました。」といいます。今は傾斜もゆるく、車の往来の絶えない平凡な坂です。
【やぐら洞穴の庚申塔】(長坂4-2)
長坂古戦場あたり、無量寺へと向かう三差路から北に少し入ると、「やぐら洞穴」と隣接して石像が7基ありますが、庚申塔は5基です。

○「無量寺」(長坂4-21)
さらに東に向かうと、園芸センターの向かい側に「無量寺」があります。文治5年(1187)、和田義盛が祈願のために建立したといわれています。本尊は阿弥陀三尊。鎌倉無量ヶ谷戸より、現在地に移したと伝えられています。三浦観音霊場第29番札所。境内には大きなクスノキがあります。
【阿弥陀三尊】
本尊の阿弥陀三尊は三浦七阿弥陀の3番目で、運慶作の阿弥陀如来が祭られていましたが、寛文9年(1669)不慮の火災で全焼。その後、第六世住職・南慶上人が再建し、その時に作られた阿弥陀如来が現在祭られています。
【間宮家の墓】
この寺は間宮家の菩提寺で、間宮家のお墓があります。間宮家は徳川家康より相模国三浦郡と上総国望陀郡において1200石を賜り、三浦郡長坂村で700石あまりの知行地を有し、幕府船手奉行として当地を知行しました。また、マミヤ高則の子・真澄は大阪夏の陣で三崎水軍を率いて活躍し、元和元年5月26日戦死し、この無量寺に葬られたといわれています。往時、この地を支配した水軍の将も、今では半ば埋もれた雑草のなかにむなしく苔むして永い時の流れを思わせます。
【錦島三太夫の墓】
錦島三太夫は長井村の出身で、明治元年に他界した錦島部屋四代目の親方です。三浦半島には、三浦相撲と呼ばれる素人相撲があったそうです。長坂・祖母神社の祭礼でも、奉納相撲が行なわれていました。その祖母神社敷地内にあったお墓が、道路拡幅のため平成5年ここに移転しました。錦島三太夫の供養のため、祖母神社に没後五十年忌にあたる大正2年三浦半島の門弟連によって建立されました。三浦相撲の近代隆盛期は、明治30年代〜大正時代初期にかけてで、横須賀市太田和にある旧家では、明治30年8月15日・16日の両日、小田和橋際(現在の武山駐屯地正門前あたり)で三浦相撲が興行された時の番付表が残っています。

○「妙印寺のつるし雛」(長坂4-18)
無量寺からさらに東に向かうと「妙印寺」があります。創建は永正元年(1504)10月。「つるし雛」が有名で、かわいい雛がところ狭しと飾られている様はまさに豪華絢爛です。
【妙印寺東の庚申塔】
妙印寺から東に向かうと、右手の民家の前に1基の庚申塔がさみしくあります。

○「長谷観音堂の庚申塔」(長坂4-14)
妙印寺の東、南葉山霊園入口の先の左道路端に「長谷観音堂」があり、上に「阿弥陀如来・長谷観音分身」と書かれています。その観音堂の下に庚申塔があります。全部で6基、一番古いのが享和2年(1802)、新しいのが昭和55年で、全体的に状態がよいようです。

○「長沢公園の庚申塔」(長坂3-31)
長谷観音堂から先に向かい自衛隊射撃場の先で右に回り込んでいくと、左手に「長沢公園」があります。公園の先を左折していくと、長坂公園の下に7基の庚申塔があります。
【新谷戸橋手前の庚申塔】(長坂3-38)
長沢公園から北東に向かうと、新谷戸橋の手前の分岐点に4基の庚申塔があります。

○「沢山池」(長坂5丁目)
さらに北東に向かい、左折して荻野川の上流に向かうと「沢山池」(ため池)があります。池は一帯の水田を潤してきた歴史がありますが、現在は池にはほとんど水がなく湿地のようになっており、立入禁止になっています。
【水神の碑】
池脇に「水神の碑」があります。里山の人達にとって重要な池だったことが分かります。

○「太田和つつじの丘」(太田和5-2638)
沢山池から南東に向かい、太田和の里に入ると右手に「太田和つつじの丘」があります。平成16年4月1日に従来の「太田和緑地」から名称変更しました。緑地は山の斜面に広がっていて、ツツジの木が一面に植えられています。その中を整備された散策路が続いていますが、 背が高くて壁のようになったツツジに囲まれていて周りが見えないほどです。ここはツツジの名所としても知られており、約5万本もあるというツツジの花が咲く頃に是非訪れてみたいです。

○「太田和(三浦正)八幡宮」(太田和5-2771)
さらに下って行くと、つつじの丘の北東約300mに「太田和(三浦正)八幡宮」があります。次の由緒書きがあります。
《八幡社は古来武運を守護し、健康を司り、土を愛し、稔を扶け給う神として、崇敬最も厚く、村人其他参拝多く、御神徳の弥高く在りますを偲ばしむる。天文五丙申年9月14日、時の領主北条九郎為昌より鎌倉鶴ヶ岡八幡宮社領として、当太田和郷を寄進せられたと鎌倉鶴ヶ岡八幡宮古文書にある。慶長17年壬子8月22日、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を当村に分祀勧請し、小田和の真言宗安養院(今の蓮宗本住寺)の境外地に鎮座在した。当時安養院の住僧が別当に任じた今の宮畑と称する地が宮地であったとのことである。元禄4年未年11月15日、落成の社殿再建に当り、村人御造営を謀りし折、 12羽の丹頂鶴が宮の屋の棟に現れ、忽ち舞上りて北に進みて飛翔し、今の鶴巻田の辺りにて三度舞を巻き、更に北に進みて西の谷の小高き丘の森に舞降りて神跡をたれたので、今の宮地に社殿の造営は成ったとある。文久2壬戌年10月里庄浅葉仁右衛門は僅かの基金に多額の私財を投じて社殿を造営せられた。即ち、今の社殿がそれである。旧本殿は里人高木営造なる者願主となり、字林中尾に不動尊を祀り其の堂となって居る。文久4甲子年2月人皇第121代孝明天皇宸筆の御社号を賜る。相三浦神社正八幡宮の篆額がある。》

○「東漸寺」(武2-12)
太田和八幡宮の南東、武のバス道路沿いに「東漸寺」があります。本尊は阿弥陀三尊像。本堂の前には、大楠の古木が静かに立っています。
【日金地蔵】
本堂に向かって右側の厨子に、「日金地蔵菩薩半跏像」(通称日金地蔵)が祀られています。もとは鎌倉雪の下にあった松源寺(廃寺)の御本尊。明治初年の廃仏棄釈の折に、鎌倉長谷寺に、その後東漸寺に移され、現在の本堂に安置されました。寄せ木造り、像高は103僉玉眼入り。墨書銘と修理銘札などが頭部や胎内で発見され、寛正3年(1462)大仏師・宗円により造立されたとわかります。

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