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2015年09月09日00:43

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超真相!日本の古代史;4、緩やかな連合国家「鵜芽葺不合王朝」


<超真相!日本の古代史;4、緩やかな連合国家「鵜芽葺不合王朝」>

その後、近畿地方で長髄彦(ナガスネヒコ)尊が反乱を起こしたため、日高佐野王が海路から久真野に上陸、湯野崎水門近くの二高の宮を行宮として賊軍を討ち、大和国橿原宮で即位し「鵜芽葺不合王朝」が始まった、と記述されています。

が、この点に関して「記紀」によると、長髄彦尊と戦ったのは神武天皇(神倭朝=大和朝)であり、一方、「神皇記」のいう「日高佐野王」は"日高"とあることから「富士王朝」ないし「日高見王朝」の天皇である可能性が高く、また日高佐野王=神武天皇とすると、不合王朝初代天皇となって矛盾します。

そこで、「白山王朝」→「富士王朝」→「不合王朝」→「神倭朝(大和朝)」という流れから考えると、富士山の爆発で阿祖山大神宮(富士王朝)は一旦崩壊した後、関東に都を移し「日高見王朝(後の東日本"日之本王朝")」を建て、

一方で、九州を都にした「不合王朝」が成立。他方、大和地方には「邪馬台国」が成立していたと考えるのが自然なのではないかと考えられます。

実際、他の文書によると、「不合朝」当時には、これ以外にも、北から「荒覇覇吐国(青森)」「日高国(蝦夷)」「蔵王国」「飛騨国」「熊野国」「吉備国」「出雲国」「不弥国」「投馬国」「伊都国」「奴国」「熊襲国」などが存在し、緩やかな連合国家を形成していたが、最終的に「神倭(大和)朝」に統一されたと書かれています。

だとすれば、次に問題となるのは、「神倭朝」の前の「不合王朝」の中心はどのような部族だったか、という点です。結論から言えば、島嶼国である日本人の50%を占める海人族(海洋民族"港川原人")を中心にしたものだったのではないか、ということです。

勿論、その後も他民族の流入があったので、日本人のルーツは、1)南アジア(4万5千年前)、2)南西諸島(3万5千年前)、3)シベリア(2万年前)、4)華南、南西諸島(7千年前)、5)華北、蒙古、半島、シベリア(2千年前)となります。https://www.youtube.com/watch?v=43Hbp27OYas

(次回に続く…)

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